今回は「ナユタン星からの物体Y」の二曲目に収録されている『ミステリーサイクル』の歌詞について考えていく。
というか、これを書き始めるまで「ミステリーサークル」だと勘違いをしていた。危ない。いや、『エイリアンエイリアン』の歌詞を考察した時の最後のほうの文で思いっきり間違えていたのだが。もう修正してある。こっそりと。
紛らわしくはあるが、明らかにそこから持ってきたであろうタイトルなのでもろもろ仕方ない。とりあえず気づけたので良しとしておこう。
歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。
これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。
ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。
というわけで、考察を始めよう。
いつもは単語などを調べるところから始めるのだが、今回は特にその必要がありそうな言葉があまりない。
なので最初から直接歌詞の考察をしていく。
「夏の風が」~「口実だった」
さっそくながら今回の歌詞でおそらく一番解釈が難しいところが冒頭の部分だ。「夏の風」とあるので季節が夏なのはまずわかる。そしてその風が「あなたの髪ゆらした」は描写として理解もしやすい。問題はその間の歌詞の「退屈そうに青を呑む」の部分だ。
とりあえず曲を聞きながら歌詞を追っていると、どうやら「あなた」が「退屈そうに青を呑」んだというようなイントネーションに聞こえる。「あなた」に関する描写としての歌詞であろうということだ。
「青」という単語で表現するからには、ここには様々な意味が重なっていると考えたほうが良さそうだ。
そして「呑む」という漢字は「飲む」とは少し違った使われ方がされるらしい。まるのみにするような場合や比喩表現のときに「呑む」の字が使われることが多く、「息を呑む」だとか「要求を呑む」だとかでこちらの字が使われるのだとか。
酒を呑む以外ではあまり液体では使われないらしいことから、実際に何か飲み物を飲んだ、という意味はなくもないかもしれないが、弱そうだ。
とりあえず一番単純に考えるなら、夏の空気のこととなるだろうか。「風」が「あなたの髪」を「ゆらした」のなら屋外か、少なくとも外を感じられる場所だろうから、天候が快晴であり、それを背景として「あなた」がいるのなら、空気を吸い込むことを「青を呑む」と表現することはできそうだ。
他に考えられることとしては、青春という言葉に「青」という字が含まれているように、未熟だとか若いだとかというニュアンスもあり得るかもしれない。その場合、「青を呑む」というのはある種の未熟さのようなものを受け入れるという諦めのような気持ちとも取れるし、あるいは受け入れるというより我慢するというような意味合いとも取れる。要は自分の年齢が原因となってどうにもできないことがある、という状況を表現しているという解釈だ。
また別の解釈としては、青信号の「青」のように、「安全」みたいな意味もあるかもしれない。つまり「青を呑む」は、「安全を享受する」。誰かの庇護のもとにいる立場であるとすれば、そういう表現もあり得るだろう。
いろいろ解釈はできるものの、確定は難しい。というか、多重の意味が含まれていると考えたほうがおそらく良いと思うので、こういったいろいろな意味合いが含まれた歌詞なのではないか、と考えるところまでにしておこう。
とりあえず確定できる部分としては、季節は「夏」で、「あなた」は「退屈そう」。
そして続く歌詞で、「とおく見えた謎の光」を目撃し、『アレはなんだろう』という疑問を「旅の口実」にした、ということになる。
つまり退屈していたところで何か不思議なものを見て、旅に出ることを決めたというのが冒頭部分の歌詞になるわけだ。
「自転車 海岸線」~「戯けて言う」
タイトルの「サイクル」はシンプルにこの「自転車」のことだと考えて良いのだと思う。それが「海岸線」を「走る」。イメージしてみるとやはり背景は全体的に青っぽい気がする。
次の歌詞はセリフで、『少しかわってよ!』と、「ぼくは言う」。
登場人物は「ぼく」と「あなた」であり、「自転車」は一台。『かわってよ』は運転のことだろうから、二人は一緒に乗っている。
次の歌詞に「あなたは背で」とあるが、やはり自転車の二人乗りであるのは間違いなさそうなものの、「ぼく」と「あなた」のどちらが運転しているのかは、わかるようでわからない。
「ぼく」がずっと運転してきたから「少しかわってよ」と言ったのか、それとも運転したくて「少しかわってよ」と言ったのかは確定できない。「背で」というのも、「あなたが背中越しに」という意味なのか「ぼくの後ろで」という意味なのかこちらも確定できないように思う。
なのでここはいっそどちらでもいいのかもしれない。というかどちらでもいいような表現にしたということか。
「あなたは背で」に続いて「からかう様に」。その次はまたセリフ。『世界は終わってしまうのかっ!』と「戯けて言う」。
「戯けて」の読みは「おどけて」。セリフは「ぼく」に対しての直接の返答になっていないが、そう言って話を逸らしてごまかそうとした、というような会話だろう。暗に運転はかわらない、と言っているわけだ。
一方でそれで『世界が終わってしまうのか』というセリフがなぜ出てくるのかといえば、「とおく見えた謎の光」からイメージを膨らませたのだろう。もちろん冗談として言っているだろうが。
ただ、歌詞としてはそれだけではないかもしれない。もっと全体に関わる意味を持っているようにも感じられる。
それを示唆するような歌詞がこの次に来る。
「多分、ぼくら気付いてんだ。」
何に、というのは続く歌詞で考えるとして、ここの歌詞に「。」がついているのは一つまた考察のポイントになるだろう。ただ、「。」がついているのはここだけではないので、これも後でまた考えよう。
「スタンド・バイ・ミー」~「できなくなるから」
「スタンド・バイ・ミー」はあまりに有名なフレーズだ。そのタイトルの楽曲と映画があるが、映画のイメージのほうが強い人が日本では多いかもしれない。「stand by me」の意味は「私のそばにいて」もしくは「私を支えて」のようなことらしい。物理的に「私のそばに立って」という直訳もあり得るが、この歌詞の場合は違うだろう。
ただこの歌詞、実際に曲を聞いてみると「スタンド」ではなく「ステイ」に聞こえる。つまり「stay by me」だ。こちらの意味は、「私のそばにいて」。なんとも悩ましいことだが、おそらくこちらの意味合いがこの曲の歌詞の中においては強い、ということを表現するためにそうなっているのだろうか。
ところで歌詞に出てくるフレーズということで言うと、「stay with me」も良く聞く印象がある。ちなみにこの意味は「私と一緒にいて」。さらに悩ましい。ただ、「by」は「そばに」や「そばを通り過ぎて」という意味で使われる副詞であるようで、「with」の「ともに」や「一緒に」という、そのものと一体となるようなニュアンスとは少し違う。
むしろ「by」は近づくようなニュアンスがあると思われる。「stay」は近くにとどまることなので、逆に言うと物理的な意味で「遠くに行かないで」と言っていることにもなるだろうか。英語難しい。
まとめると、「スタンド・バイ・ミー」という歌詞でありながらもしかしたら「ステイ・バイ・ミー」と言っているのは、「仮に遠く離れていても私を支えてほしい」という意味と、そうはいってもやっぱり「遠くに行かずにずっとそばにいてほしい」という意味が重なっているからなのかもしれない、と考察できる。
それを、「いつまでも」、「どこまでも」と言っているわけだ。このとき「どこまでも」のほうは「どこでも」という意味とは限らないかもしれない。ある状態が続いていくことを「どこまでも」と表現することもあるため。
次の歌詞が、「夏が終われば こんな旅も」「もう、できなくなるから」。これがさきほどまとめたような「スタンド・バイ・ミー」の歌詞の解釈の理由になった部分だ。つまり別れが近づいていることを知っているからこその「スタンド・バイ・ミー」だということ。
「とおくの日が」~「ぼくらが見たものは――」
「とおくの日が」「落ちる」とあることから夕暮れ時だろう。「海岸線」の歌詞があったことからイメージされるのはやはりそれが見えるような風景になる気がする。
「知らずに手と手が触れている」のはもちろん「ぼく」と「あなた」の。理由は相手の存在を感じたいから、となるだろう。そのときの感情は多くの人が想像できるはずだ。
「光の真相へ」の光はもちろん「とおく見えた謎の光」のこと。「あと数10メートル」は歩み寄ったのだろうと思われる。「知らずに」手と手が触れるためには自転車の二人乗りの状態では難しいので、自転車を降りて二人で並んで歩いている状態のはずだ。
「ぼくらが見たものは――」何なのかはわからない。何もなかった可能性もある。
しかし一応考えてみると、まず光を見たときからこの場所に辿り着くまでに結構な時間が経過しているはずなので、気象現象の一種だとするならとっくに終わっているはず。隕石のように空から何か落ちたというのでも同じだ。それはUFOみたいなものでも変わらない。
従って、何もなかった可能性は決して低くない。一方で、ではなぜこの場所に辿り着くことになったのか、という疑問も生まれる。一時的な光でしかないなら、目指して移動している間に光が消えてしまえば、消えた後からその場所を見つけるのは難しい。
となると一目でわかるほどわかりやすい場所に光があったことがまず考えられる。例えば地形が見渡せるような高台などから光を見たなら、それがどの地点かはわかるかもしれない。
そしてずっと光を発し続けている場合も考えられるだろう。その場合、自然物ではなく人工物の可能性が高いが。
実際、「数10メートル」の距離でその光の正体がわかるような状況を考えると、光を発しているもしくは発していたものは、今も空にあるとは考えにくい。またこの表現から、地面から離れた海のどこかとも考えにくい。となるとそれは地上にある何かという可能性が高くなってくる気がする。
こう考えてみると、「海岸線」という歌詞から連想するとなんとなく、「灯台」をイメージしてしまう。まあそれだとそれなりに高さがあるはずなので近寄らないとわからない、ということは考えにくいが。
一番あり得そうなこととしては隕石のような落下物が地上に落ちるのを高台からを見た、という感じだが、それはそれで他に野次馬が集まっていそうな気もする。あまり人口が多くない土地なら他に誰もいない可能性もあるけれども。
いずれにしても、実際にそこにあったのがなんであるのかは「ぼく」や「あなた」にとってさほど重要ではない。もともと「謎の光」は「旅の口実」だったのだから。
しかし何らかの期待はしていたかもしれない。そのときの二人の受け取り方については描写がないのでここについては想像するしかないが。
「自転車 海岸線」~「どんな顔していたんだろう?」
帰り道だろう。先ほどから時系列は続いているだろうから、夕暮れか、もう日が落ちた後かもしれない。それもあっての、『涼しくなったね』という「ぼく」のセリフ。それだけではないかもしれないが。季節の移り変わりの意味も、この後の歌詞を見るとありそうに思う。
「あなたは背で」はやはりどちらが前で後ろかは確定できない。が、顔が「見えない様に」するのはどちらかと言えば運転している側のほうがやりやすいかもしれない。後ろ側でもできることはできるだろうが。
「どんな顔していたんだろう?」の答えもまた、想像するしかない。しかし少なくとも行きのようなはしゃいでいるような雰囲気は二人のどちらにもない。「顔」つまり表情がわからないということは、おそらくほとんど喋ってもいないのだろう。
「夏が終わる。」「どうか、ずっとお元気で。」
旅の終わりと夏の終わりが重なっている。そしてそれが別れの時期も示しているわけだ。
これで歌詞はひととおり見終わったが、まだ考えるべきことがあるのでいったん戻ろう。
まず、『世界は終わってしまうのかっ!』に含まれている意味や心情についてだ。
「夏が終わる」ことと「世界が終わる」ことはイコールではない。夏の終わりは二人の別れを意味しているが、別れた後も世界は終わらない。その別れの後の世界を想像したくないがために、いっそのこと世界が終わってしまってもいい、というような心情がどこか隠れているような気がする。
もちろん本当に世界が終わってほしいわけではないだろうが、言ってみれば世界が終わってしまうのと二人の別れを比べたときに、心情としては世界が終わるよりも別れが来ることのほうが耐えがたい、というのがあっての発言なのではないだろうか。
そして、「多分、ぼくら気付いてんだ。」という歌詞も、この『世界が終わってしまうのかっ!』に関わる歌詞のような気がしている。
特に「終わる」という部分だ。世界ではなく、二人のこれまでの関係が「終わる」ことに、二人ともが気付いているという意味合いに思える。別れ自体はおそらくすでにわかっていることだろうから、「気付く」という表現を使うのならば別れ自体ではなく、それによってもたらされることのほうを示していると考えられる。
気付いているがはっきりとはお互いに言わない。けれど気付いていることを相手に示すために、「終わり」を感じさせることを言う。ただし正面から話して暗くならないように、「戯けて」。
おそらくこの「旅」が最後の思い出になるであろうということに気付いていた、という意味も含まっているのだろう。
そして、「夏が終わる。」その次の「どうか、ずっとお元気で。」と「多分、ぼくら気付いてんだ。」の三つに、この歌詞では「。」がついている。
これはおそらくだが、文の終わりを示す記号であることから、「終わり」を特に感じさせるような歌詞をさらに強調するような使い方をしているのではないだろうか。というか、「ぼく」が特に強く「終わり」を感じたとき、かもしれない。
タイトルについて
もともと勘違いをし続けてきたように、「ミステリーサークル」をもじった曲名であるのは間違いないだろう。そして「サイクル」が自転車のことであろうことも、歌詞の内容を考えれば不自然ではない。
そもそもの「ミステリーサークル」といえば、田畑などで大規模な円などの模様が形作られることだが、「サークル」には同好会のような意味もある。そう考えると同じ「ミステリー」を探求する「サークル」として、謎の光の正体を見に行く二人も「ミステリーサークル」と言うこともできそうだ。
おそらくその「ミステリーサークル」と、自転車旅というところを合わせて発想した結果としての曲名が『ミステリーサイクル』ということなのではないだろうか。
まとめ
すぐ先に別れが来ることを知っている二人が少し不思議なものを見て、それが何なのかを確かめるために自転車で旅に出るというある夏の終わり際の物語が、『ミステリーサイクル』だと言うことができる。
いわば思い出作りのようなことも理由としてあったのだろうと思うが、ある種未知なものを探して旅に出る物語は、往々にして日常的な世界観で終わりを迎えることになる。不思議な光に包まれて終わり、とはなかなかならないものだ。
それを半ばわかっていつつも、それでも旅に出るというところに多くの人が青春のようなものを感じるのだろうと思う。
と、まさに終わろうとしているときに思いついたことがあるので一応書いておこう。
そういえばというか、ナユタン星人の歌詞で出てくる電気的なものや光は何らかの感情から来る行動を示していることが多いという解釈を今までしてきていた。あまりに堂々と「謎の光」が出てきてしまったがために、これに当てはめて考えてみるのをすっかり忘れていた。
実際この光は二人が見た光であることから、一つの現象として捉えるほうが自然なのはその通りだと思うのだが、よくよく考えてみれば「とおく見えた謎の光」は二人がとおくに行きたい気持ちをそのとき抱いていたというのと重なる。それに「謎の」とついているのは、二人が自分たちがなぜそういった気持ちになっているのかをよく理解していなかったからではないだろうか。
そう考えるとその気持ちについて、「多分、ぼくら気付いてんだ。」とその後に自覚した、というように繋がる。しかしここでも頭に「多分」とついていることからはっきりとはしていないのかもしれない。
その気持ち、つまり「別れが来ると知ったうえでとおくに二人で旅に出たかった」理由をはっきりと自覚したタイミングこそが「光の真相」を見たそのときなのではないか。
「謎の光」がイコールで「無自覚な感情や衝動」だとすれば、「真相」はそこにあったもしくは無かった物質としての何かなどではなく、自分たちが旅をしようと思った理由への自覚だ。
そうだとするとなぜ自覚に至ったのか。それは単純に、もう帰らなければならないから。旅の目的を達してしまったから。二人でできる旅が終わってしまうからだ。
終わりに
ナユタン星人の歌詞考察については、次は『月光ミュージック』になる。今回の『ミステリーサイクル』は歌詞の内容としてはわりとわかりやすいほうだったと思うのだが、『月光ミュージック』は『Y』のアルバムの中でもぱっと見でかなり難しそうな印象を受ける。
とはいえ難しくなさそうに見えても結局簡単ではないことがほとんどなので、どれが一番難しいかはやってみなければわからないのだが。
しかし難しそうに見えて簡単だったことは正直一度もない。
なんとかやっていこう。