『ライブラ』=天秤はどこにあったのか?




今回は「ナユタン星からの物体X」の二曲目に収録されている「ライブラ」の歌詞の考察をしていく。

歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。

この曲は単体で動画として上げられてはいない。しかし歌詞も曲も疑う余地がないほどナユタン星人だ。なんだったらないはずの動画が頭に思い浮かべられそう。

これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。

ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。

それでは解釈を始めていこう。

登場人物は「僕」と「君」の二人だ。両想いの関係なのは間違いないだろう。話の流れは非常にシンプルなので、その点においてはそれほど難しいところはない。

難しいのはそれ以外の部分。主にサビ以外のところの歌詞だ。

そしてキーになる言葉は、「逆行性の天秤」。

「ライブラ」はてんびん座のことらしいので、まず何よりも先に、この曲の歌詞における「天秤」とはいったいどのようなものなのかを考えなければ、一歩も進めない。

でも、「逆行性の天秤」って何?

この言葉だけではなかなか難しい。だからここはいったん歌詞から離れて「天秤」自体のことを考えてみる。

しかし、「天秤」で調べてみてもやたらといろんなものが引っかかる。釣り具とかミシンとか。しかしここでは天秤ばかりのことだろう。しかしそれでも神話とかが絡んでくる。正義を計るとか裁きの象徴とかも調べると出てくるけど、関係なさそう。

とりあえず関係がありそうなのは、最も簡単にイメージできる天秤ばかりの形と性質だ。

支点となる棒があって両側に皿があって二つのものの重さを比較する。重さのわかるものと重さを調べたい対象物を皿に乗せ、対象物とつりあう重さを調べるというもの。

厳密に言うなら重さではなく質量らしいが、そのへんはとりあえずいいだろう。天秤の形状もいろいろあるらしいが、一番イメージしやすいあれでいいと思う。というか星座で調べると出てくるてんびん座の絵のやつでいい。

天秤は二つのものを乗せる。想像してほしい図は、「僕」と「君」が巨大な天秤の皿の上に乗っている状態だ。天秤は二人の関係性を示している。

この構図を足がかりにすることで、「ライブラ」の歌詞をようやく読めるようになる。

「完全でも不完全でもない僕」と「完成でも未完成でもない君」は、同じような状態の二人であることを示しているが、早速わからない。

だが、もしかしたら精神の成熟度合いみたいなことかもしれない。大人になりきっているわけではないが、まるっきり子供というわけでもない、というような。

あるいは一人の人間として居ることはできるが、何かが足りないような気がするというような精神状態のことを示しているのかもしれない。

「そんな二人が・・・呼べそうなものな気がした」

精神的な意味合いならば、充足感ということになるのだろうか。満ち足りた、というやつだ。いわゆる運命を感じた、という表現もあり得るかもしれない。こうなるのが必然だったのだと感じられるような瞬間のことだろう。

今書いたような文章での表現だとなんだかありきたりな気がしてしまうが、それと天秤のイメージを合わせるという発想がここにはある。

「二人が重なったとき」というのは身体的な接触の意味合いよりも、さっきの天秤のイメージで、片方の皿の後ろからもう片方の皿を見たときに同じ高さになる=つり合うという状態のことを表現しているのではないかと思う。「見えた形」というのは「僕」が実際に見ているわけではなく、天秤に乗った二人の位置がつり合っているイメージが、「僕」の中で「見えた」という意味ではないだろうか。

このときつり合っているのは少なくとも体の重さではない。当たり前だが。つり合っている状態とは、二人の関係性を示している。しかし身分というわけでも、どうやらなさそうだ。しかし、結論を出すのはもう少し後にしよう。ヒントはまだ先の歌詞にある。

関係性を示す言葉としての「アイラブユー」と「アイニージュー」だ。もちろんこれはI love you とI need you のことだろう。この歌詞においては、恋よりはどちらかというと愛のほうが近いような気がする。つまり二人の関係性は恋愛状態であるとは言っても安定的だと感じられる。既に交際しているような状態だ。

とはいえ熱が冷めているというわけでもないだろう。「寝不足の眼で『ずっと一緒だよ』」という部分からもそう思える。寝不足の理由ははっきりしないが、一つ思いついた具体例としては、深夜まで電話などでやり取りを続けるようなことだ。それほど繋がりが強くなっている状態であるからこその「アイニージュー」なのだろう。

また、need、「必要」という言葉は、「完成」という言葉にも繋がる。天秤のイメージで考えても、片方の皿から一人がいなくなってしまえばつり合っている状態は失われる。

「絶対とか簡単とか・・・そんな能力もいらないや」

「絶対」、「簡単」は通販だとかビジネスマニュアルだとかでよく聞く言葉だ。この場合は恋愛特集記事のほうが合っているかもしれない。こういうときはこうすればいい、というようなアドバイスが「ほしいんじゃなくて」、ということではないだろうか。

「シンクロ」、「テレパシー」というのはまあ超能力のことだろう。「簡単」に繋がりあうための手段としての「そんな能力もいらないや」。理由は次の歌詞にある。

「ちがう二人がたがう言葉で・・・それを僕ら、愛と呼んだ」

「ちがう」と「たがう」はほとんど同じ意味だ。漢字ではどちらも「違う」。ここで言われているのは、意見だとかが食い違っていたとしても話し合ううちにお互いのことを理解し合えるとしたら、そのわかり合おうと話し合うことそれ自体が「愛」であるといえるんじゃないか、ということだと思われる。

だから、「絶対」うまくいくとか「簡単」にわかるとか、あるいはわかりあうための一番手っ取り早そうな「シンクロ」、「テレパシー」のような超能力などはすべていらないわけだ。

これも、天秤のイメージに重ねることができる。二つの皿にいくつかのものを乗せていくと、天秤はどちらかに傾くだろう。逆側に傾くこともあるだろうが、その傾きを水平にするためにさらに置いたり除いたりを繰り返していく。その行為は、天秤をつり合う状態に持っていくための必要な作業であるといえる。

つまり天秤がつり合っている状態とは、二人がお互いにわかりあおうとした結果できあがった状態のことを示している。ぶつかった経験を越えた後の、安定的な状態だ。

この後歌詞は「僕らいつか離れ離れさ」となる。「グズグズ声で」は泣きながら言っているということ。「『ずっと一緒がいいよ』なんて僕だってそうだよ」と、そう言う以上は別れなければならない状況に陥ったのだろう。

年齢ははっきりしないが印象としてはそこまで高くない。なら別れの理由の定番としては親の転勤あたりが思い浮かびやすい。

そして最後、再び「アイラブユー」とあるので、その感情自体は別れてからも変わっていない。「アイミスユー」は I miss you だろう。「あなたがいなくて寂しい」というような意味らしい。

「あの日の僕らずっと一緒にいたっけ」。裏返せば今はそうではないことを示している。そして、「今は泣けるよどうにもさ」で曲は終わる。

お互いが望まない形での別れの曲だ。

そしてこの別れも、天秤のイメージを使って表現されている。

それこそが、「逆行性の天秤」なのである。

これは天秤ばかりを使うときの様子をイメージすればわかる。

まず、天秤ばかりがある。皿には何も乗っていない。次に、片方の皿にものを置く。するとものを置いたほうへ、天秤は傾くだろう。そして、もう片方の皿に別のものを置く。天秤の傾きがなくなったら、その状態をもって「完成」だ。

「逆行性」なのだから、この手順をひっくり返せばいい。

「完成」した状態の天秤の片方の皿から、ものを取り除く。バランスが崩れ、つり合っていた天秤は傾く。わかりあうべき相手が失われたことを、このようにして表現しているのだ。

天秤は二人の関係性を示している。従って天秤から片方がいなくなってしまうことは、関係性の消失を示す。簡単に言うなら、それがまさに別れだというわけだ。

「二人が重なったとき見えた形」は、一人がいなくなってしまえば見えることはなくなる。

二人の間にあった「天秤」が現れてから消えるまでを描いたのが、この「ライブラ」という曲の歌詞である、と結論することができる。

「アンドロメダアンドロメダ」に続いて、切ない歌詞だ。というか「ナユタン星からの物体X」にはそういう歌詞の曲が多い。そして意味が通るように解釈するのは難しい。それでいてイラストや言葉選びはポップだ。一見すると適当に言葉を並べているようにも思えるが、ナユタン星人を舐めてはいけない。つくりは非常に緻密なのだ。

一方で、曲を聞くときにいちいちここまで考えなければならないわけでもない。なんのためにポップな飾りつけがされているかといえば、そっちのほうが気軽に聞けるからだ。

入り口には気軽に立てるが、奥は深く。どこまで進むかは我々次第だ。

では次回は「飛行少女」について、考える。