今回はEveのアルバム『おとぎ』より『トーキョーゲットー』の考察をしていく。
『トーキョーゲットー』は2018年7月5日に初音ミク歌唱バージョンのMVがニコニコ動画に、翌日6日にEve本人の歌唱バージョンのMVがYoutubeに投稿されている。
そしてアルバム『おとぎ』の二曲目。歌詞のある曲としてはアルバムの一番最初の曲になっている。
Eveの歌詞 の考察はこれまでに『ナンセンス文学』、『ドラマツルギー』、『お気に召すまま』をしてきた。どれも難しかったが、この曲は特に難解そうなイメージがある。とはいえさらっと聞いただけでも受け取れるメッセージはあるので、当然意味や意図はあるだろう。
Eve『ナンセンス文学』歌詞解釈・考察|魔法だけでは生まれ変われない
https://najiitishi.com/music/nonsenseliterature.html
Eve『ドラマツルギー』歌詞解釈・考察|黒幕を見抜いてこの劇場を
https://najiitishi.com/music/dramaturgy.html
Eve『お気に召すまま』歌詞解釈・考察|手を取りあって、この先も
https://najiitishi.com/music/asyoulikeit.html
歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。
これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。
また、歌詞の一部分を抜き出してその意味などを考察しながらひととおり解釈した後に、改めて全体を考察するという形式を取る。
ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。
そして敬称は略させていただく。
というわけで、考察を始めよう。
「誰でもいいや」~「向こう側へと」
冒頭からいきなり難しいが、「誰でもいいから 誰かいないか」という意思を持った、「声」ではなく「視線」があるように思えた、という意味に取れなくもない。
「2つと在る」が「2つと無い」(ただ一つしかない)の逆だと考えるなら、「視線」が「2つ以上あった」ということになるだろうか。
そしてそこから「これでおさらば 呪縛からさらば」と続くので、その「視線」をきっかけにして何らかの「呪縛」を解いたということかもしれない。「夜が解けた」というのも、「夜」を「暗い状態」だと捉えるなら、「暗くなくなった」ということになり、それは「呪縛」が解けたことによってそうなった、と考えられるだろう。
そしてそこから「好奇心だった 有刺鉄線の 向こう側へと」行こうとしているのなら、逆に言えばそれまで「呪縛」によって「好奇心」はあったものの「向こう側」へ行くことができなかった、と整理できそうだ。
ひとまずここまでの歌詞は繋げて考えることはできそうなので、意味のない言葉を並べているだけということはないだろうが、それでもかなり具体的な描写が少なく読み取りづらい。
しかしとりあえずいったんは流れを掴むためにも、歌詞をそのまま考えてみる。
「全然興味ないって」~「といえば嘘になるが」
正直なところ、冒頭の歌詞との繋がりはよくわからない。さらにこの部分の歌詞も、ここだけで読み取るのはかなり難しい。いったん先に進んだほうがいいかもしれない。
「退廃的だった」~「現れた君は」
ここの歌詞と手前の歌詞が同じような意味であると捉えることで、何とか理解できそうに思える。
「全然興味ない」というような態度と「退廃的だった」のが両方とも「僕」の話だとすれば、「蝶が舞い込む」ことと「君が現れた」こともまた同じことを意味しているのかもしれない。「君」を「蝶」に例えているという解釈だ。
「退廃的」というのは「道徳的な風潮が廃れて不健全、不道徳なさま」というような意味らしい。
「コーヒーの泡を溢す」場面を想像すると、お湯を入れ過ぎて泡の部分がこぼれたという感じだろうが、そうだとすると「注意力が鈍っている」だとか「集中力がない」ような感じかもしれない。「退廃的」と合わせてもう少し踏み込むなら、「意欲がない」「しっかりしようと思えない」という感じもする。
「そんな 毎日だった 僕」とあるので、「なんとなくぼーっとしていて何にも興味を示せない」のが「僕」の日常だったのかもしれない。
そこへ、「蝶」「君」が現れたところまでがこことその手前の歌詞なのだと思う。
その後のことにも少し触れているようだが、「想像通りだった といえば嘘になるが」ということらしい。
「想像通りの展開というわけではないものの、ある程度は思っていた通りになった」というようなニュアンスを感じる。具体的にどういうことなのかはまだよくわからないので、先に進もう。
「どうしたって」~「君は今日もステイ」
「ヒッピー」という単語が一番の問題だ。調べれば調べるほどこの歌詞の中での使われ方がよくわからなくなってくる。
そもそもこの単語を短くまとめて説明するのも難しい。
「ヒッピー」とは1960年代にアメリカで生まれて世界中に広まったムーブメントであり、その活動をしている若者の総称でもある。
反体制運動であり、「ラブ&ピース」を提唱し自然回帰を目指す。伝統や制度など、それまでの価値観に束縛された社会生活を否定するというカウンターカルチャーだ。雑に言うなら、そのときの政府とか年長世代へ対抗・反抗する若者世代の運動ということになるだろうか。
「ラブ&ピース」と言っているだけあって反戦運動であり、一方で法規制に抗い自由を求める一つとしてか、ドラッグを使用するという面もあったらしい。また自由で平等な共同体「コミューン」を作っていろんなものを共有し助け合うのだとか。
だいたいこんな感じだと思うのだが、こういった「ヒッピー」をどういう視点で捉えて歌詞に組み込んでいるのかが難しいところ。それを理解するにはやはり他の部分の歌詞を見ていくしかないだろう。
「どうしたって 進めないまま」「君は今日もステイ」という歌詞から、おそらくは「君」のほうが「進まなければならないのに進めない状態」になっている。
「どうやって 理由を」の歌詞も、「どうやって進む理由を見出すのか」のような意味合いに読むことができそうだ。
そしてその逆の「進めない理由」については、「“大事なんだ全部”という聞こえだけはいい言い訳」ということだろう。もう一つ、「手放す事に怯えて」ともある。
このあたりを踏まえて考えると、「ヒッピーなこの街の性」というのは、「全部が大事だと言い、手放す事をさせないような雰囲気のある場所」のことを示しているように思う。となると「コミューン」がイメージ的に近いだろうか。
ドラッグには「退廃的」なイメージもあるし、平等な共同体ということは「自分だけが進む」ということが共同体から抜けなければできない可能性もある。それこそ「皆が大事だと思っている人ほど抜けられず、進めない」ような構造の共同体だ。おそらく「今すぐ逃げ出したいほど居心地が悪いわけではないが、ずっとここにいても先が見えない」というような性質を持った共同体が、この歌詞における「ヒッピーな街」なのだろう。
ここの部分の「向こう側」と「有刺鉄線の 向こう側」は、断言できるわけではないが同じことを示していると考えるのが良さそうに思える。
もしそう考えていいのだとすれば、「僕ら」が「気づけば 連れていかれてしまいそう」な理由として、「好奇心」を刺激されているから、というふうに繋げることができる。
「進めない状況」と、「向こう側へ連れていかれてしまいそうな僕ら」というのは、こうして考えてみると相反する欲求のようにも読める気がする。
ただそうだとすると、着地点は「手放す事に怯えて君は今日もステイ」。つまり「何の行動も起こさないまま」ということになるだろう。
「貴方々には」~「そんな顔していますが」
「貴方々」と言っているので複数人いるのはわかるが、誰なのかはわからない。一人称の「僕」視点の歌詞なので、「僕」はその人たちには「お世話になった 覚えはない」。にもかかわらずその人たちは「何かと言いたいそんな顔している」らしい。
「お世話」になったわけでないのなら「貴方々」は赤の他人ということになる。なのに何かしらの口出しをしたがっているということなので、「お節介な他人」みたいな感じだろうか。そういう人が複数いて、「何かと言いたい」という表現から実際には口に出してきてはいないと考えられるなら、この部分はいわゆる「同調圧力」を表現している歌詞なのかもしれない。
「目に映るものが」~「今に始まる」
「目に映るもの」「ここに在るもの全て」が「偽物」ということだが、やはり具体的にはよくわからない。「ここ」がどこなのかすら断定しづらいが、「向こう側」に対しての「ここ」という捉え方はできるかもしれない。「有刺鉄線の向こう側」と「こちら側」があるなら、「こちら側」ということになる。
「有刺鉄線のこちら側に在るものがすべて偽物だった」とまとめられそうだが、その意味するところはまだはっきりしない。
「情にかける」は、「情に欠ける」という「思いやりがない」ようなことか、もしくは「情けをかける」という「相手に気を配る」というほぼ真逆の意味のどちらかだと思う。
ただ、「情に欠ける」の場合は自分のことで、「情けをかける」の場合は相手から情けをかけられるということになると思う。「情にかけたって」という言い方から考えるならば。この捉え方なら両方の意味が含まれている可能性もあるかもしれない。
「棒に振る」は「努力などを無駄にする」ようなこと。そういう言い方をするということは、「ここ」で「僕」が結構な時間何かをしていたということになると思うので、やはり「ここ」は「向こう側」ではない。
となると、「向こう側」へ行くことによって「今に始まる」ということかもしれない。
一度まとめると、「ここに在るものは全て偽物であり、僕は出て行こうとしているが、ここにいる人たちの同調圧力や情に訴えかけるような引き留め、これまでの関係性を壊す可能性などいろいろなことによって実行しづらい。けれども今、向こう側へ行こうとしている」というような感じだろうか。
いまだにはっきりしない部分もありつつ、状況はなんとなく掴めてきたような気がする。
「精々舌を噛んで」~「といえば嘘になるが」
「舌を噛む」という言葉はおそらくないと思うのだが、「唇を噛む」だとか「歯噛みする」だとか「臍を噛む」という表現はあり、どれも共通して「悔しがる」という意味がある。だからそういう意味が含まれている可能性はあると思うが、「そこで黙っていれば」という歌詞に繋がるので、「言いたいことがあっても、無理矢理しゃべらないように自分でしている」という感じもする。実際、舌を噛みながらしゃべることはできないわけだし。
「精々」や「そこで」とあるので、「僕」の話ではないだろう。おそらくは「君」についての話だ。
「君がそこで無理にでも黙っていることで」、「想定通りの結果になったといえば嘘になるが」、しかしやはり「だいたい思っていた通りにはなった」。
「感傷的だった」~「美しく映っていました」
「君」が、「らしくはないが感傷的だった」。そして「そんな 表情が一瞬僕の目には 美しく映っていました」と。
ここの歌詞はそれこそ「感傷的」な場面に見えるものの、意味が読み取れないような感じはない。しかし実際にはかなり重要な歌詞のなのではないかと思う。だがそれについてはいったん後に回す。
「ずっとどこかで貴方に」~「ビビれば君は今日もステイ」
ここより後の歌詞はサビの繰り返しになるので、そうでない歌詞についてはこれが最後の部分になる。
問題は、「貴方」と「君」が同一人物なのかどうか。
Eveの別の曲の歌詞も見比べてみると気づくことに、「貴方」「君」の他にひらがなの「あなた」も使われていることがある。これは初期から最近の曲までずっとだ。だとすると、「あなた」と「貴方」には何か、使い分けの基準のようなものがあるのかもしれない。
「君」と「貴方」であれば文字数が違うから、同じ対象であっても歌詞の文字数の関係で使い分けているだけと考えることもできるが、音で言えばまったく同じの「貴方」と「あなた」の表記の使い分けには何かしら意図があると考えてもおかしくないだろう。
そして「貴方」と「あなた」を何かの基準によって使い分けているのであれば、この曲の「貴方」と「君」でも何か使い分ける意図があっても不自然ではない。
どちらかと言えば「君」には身近な印象があり、一方で「あなた」には丁寧な印象がある。そして漢字で「貴方」とすると、さらにかしこまった感じというか、やや関係性が遠いようなイメージになる。
この曲の歌詞の中ですでに「貴方々」という言葉も出ているが、その対象は「お世話になった覚えはない」とあるように、かなり遠い印象だ。
そして「貴方」の使い方も「ずっとどこかで貴方に憧れ」というところから、どこか自分からは遠いものを見るような目線にも思える。
そもそも「貴方」という言葉には「向こう」や「あちら」という意味もあったらしいので、ニュアンスとしてやや遠いというのは間違っていないように思う。特に漢字での表記においては。
だが、歌詞の中で「君」と「貴方」が確実に別人だと言えるわけではない。「君」に対して何かしら「僕」が距離を感じているときに「貴方」という表現が使われているというふうに考えても違和感はないからだ。
歌詞の流れを素直に読むなら、「君の表情が一瞬僕の目には美しく映っていた」というところから繋げて、「ずっとどこかで貴方に憧れていた」と、「君」に語りかけている言葉のように受け取れる。
「本物を超えろ」や「ビビれば君は今日もステイ」に関しても、「僕」が「君」に語りかけている言葉と捉えることができそうだ。
歌詞のどこからどこまでが「君」に語りかけている言葉なのかはよくわからないが、少なくとも「感傷的だった」あたりから「ビビれば君は今日もステイ」まではそう読める気がする。
もしそうなら、語りかけている一連の言葉の一部としての「ずっとどこかで貴方に憧れその度自分を失いかけていました」というセリフということになるので、この場合は「貴方」と「君」は同一人物と考えるのが自然だ。
だがそれならなぜ一連のセリフの中で「貴方」と「君」の使い分けがされているのか。
どうやらどういう歌詞なのか少しわかってきたような気がするので、ここからさらにそこのところも含めて考えていこう。
ひととおり歌詞を読んで
どうやら重要なポイントとなりそうな歌詞は、「目に映るものが ここに在るもの全てが偽物でした」という部分であるように思える。
つまり歌詞の中において、「ここ」とされる場所にある「目に映るもの全てが偽物」だということになる。
「僕」自身はずっと「向こう側」へ行こうとしていて、おそらくは「今に始まる」の時点で踏み出したか踏み出そうとしている。
そして直後の歌詞で「そこ」でおそらくは「君」に対して「黙っていれば」という歌詞があるので、この時点で「僕」と「君」は別の場所にいるということになる気がする。例えば、「有刺鉄線」を乗り越えた「僕」がまだ乗り越えていない「君」に対して語りかけているような状況。
そして、そのときの「君」の様子が「感傷的だった」そして「そんな表情が一瞬僕の目には美しく映っていた」というふうに捉えられる。
ここで気になるのは、「一瞬美しく見えた君の表情」が、「僕の目に映っていた」ということ。しかし「そこ」は「僕」がついさっきまでいた場所であり、「目に映るもの全てが偽物だ」と言っていた「ここ」と同じ場所のはずだ。
ということは、「君のその表情が僕の目に美しく映った」というのも「偽物」だということになる。だから「一瞬」という言葉がついているのかもしれない。
この場合の「偽物」とはどういうことなのか。
おそらく、「僕」を「そこ」へ引き戻そうとするような「感傷」のことだろう。
「僕」は「好奇心だった 有刺鉄線の 向こう側へと」行きたい。なぜなら「ここ」は「退廃的」で「ヒッピーな街」であり、ここにいる限り「進めないまま」だから。その「退廃的」で「ヒッピーな街」となっている理由が、「全部が大事だと言って何かを手放す事をさせないから」ということであるなら、その「全部が大事」だという考え方こそが「偽物」。「聞こえだけはいい」ものの実際には人を「呪縛」するような言葉や考え方だ。
だから「君」の感傷的な表情が一瞬美しく見えたとしても、それは「君」自身が「手放せない状態」であり、かつ「僕」に「手放す事をためらわせる表情」ということになる。だからそれは「全部が大事」だという考え方から来る「呪縛」のひとつと捉えられる。
だとすれば「本物」とはその逆だ。「何かを手放してでも選択する」ようなこと。
おそらくその例えが「有刺鉄線」なのだと思う。つまり「本物を超えろ」とは「有刺鉄線を乗り越えろ」というのと同じことだ。「有刺鉄線」は棘のついた鉄の柵と捉えていいと思うので、乗り越えるのには危険や痛みを伴う。従って、「本物を超えろ」とは「手放す事による痛みを乗り越えろ」という意味なのだと考えることができると思う。
ここで全体のまとめに行きたい感じもあるが、まだ整理しなければならないことがある。
歌詞の時系列について
冒頭の「誰でもいいや」~「向こう側へと」までの歌詞を「現在」だとすると、その直後の「全然興味ないって」から一度目のサビ終わりの「君は今日もステイ」くらいまでが「過去」のシーンの回想のような感じになっているのではないかと思う。
理由は、冒頭部分が「これでおさらば」「向こう側へと」とあるように今まさに「僕」が出ていこうとしているシーンに思えるからだ。そこへ至るまでの「僕」と「君」の成り行きを説明するためのシーンがその直後から一度目のサビの終わりまでだとすると時系列的な辻褄は合うように思える。
そしてその後は「現在の続き」に戻って、「僕」が踏み出して「君」がためらっているようなシーンに移る。そして「僕」がその場で「君」に語りかけている場面が最後まで続く。
物語の構成としては「現在」→「過去」→「現在の続き」ということになる。
これをおさえておけば多少は理解しやすくなる、気がする。
冒頭部分の歌詞
「誰でもいいや 誰でもいいから 誰かいないか」という「声ではないが 睨む視線」が、「2つと在ると思えた」というのは、その後に「これでおさらば」とあるように、「僕」が「ここ」から「向こう側」へ行こうと思ったきっかけのように思える。
そして時系列的にこれが「現在」のシーンであるなら、「貴方々には」から始まる部分と繋がっている歌詞であることになる。
ということはこの「貴方々」と「2つと在ると思えた睨む視線」は同一の存在なのかもしれない。
ひとつポイントになりそうなのは「在る」の表記。「ここに在るもの全てが偽物でした」と同じ「在る」という表記だ。
そして冒頭のシーンが「向こう側」へ行く前のシーンであることも踏まえて考えると、「貴方々」がいるのは「向こう側」ではなく「ここ」であり、従って「偽物」であることになる。
この歌詞の中での「偽物」とは「全部が大事という言葉を使いながら、実際には誰かが一人で進むのをやめさせようとするような考え方」、「聞こえのいい言葉を使って人の行動を誘導して縛る社会」みたいなことだと思う。
つまり「誰でもいいや」というのは、そういった「全部が大事」のような聞こえのいい言葉の裏側にある、そこの社会に属している人たちの本音ということなのではないだろうか。
要は「誰でもいいからこの社会の一員となってほしい」という、「個人を重視するのではなく、ただひたすら自分たちを維持したいだけの集団」が「貴方々」であり、「ヒッピーな街」であり、そして「睨む視線」の正体なのではないかという考察だ。
惰性で続き、それなりに安定していて平和だが、誰かがそこから抜け出していこうとすると拒むような社会だ。
となると「僕」が「これでおさらば」と思うことができたのは、そうした「全部が大事」というような言葉を使う人たちが、本音では「僕」個人にその社会にいて欲しいというわけではなく、「誰でもいい」と思っていることに気づいたからなのではないか、というふうに繋げて考えることができる。
全部を大事にしているように見えて、実際は各々を大事にしているわけではないとなれば、確かに「偽物」という表現が当てはまりそうに思える。
それに気づいた「僕」はその社会に見切りをつけた。つまり「呪縛」が「解けた」。だから「向こう側」へ行こうと思った。それが冒頭部分の歌詞なのだと思う。
タイトルについて
Youtubeで公開されているMVの概要欄にTokyo Ghettoという表記があるので、「東京」はいいとして、この”Ghetto”という単語を調べなければならない。
中世ヨーロッパの都市においてユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区がまずそう呼ばれたようだ。
他に、ユダヤ人強制収容所、あるいは少数民族など特定の社会集団が住む地域のことも”Ghetto”と呼ぶことがある。アメリカの都市で少数民族が密集して住んでいる区域など。
「ヒッピー」という単語が歌詞の中にあり、出ようとしたときに捕まるようなことにはならないことから、おそらく強制的に住まされているという意味合いはこの歌詞にはないと思われるので、アメリカのゲットーが一番近そうな印象を受ける。
その場合、黒人などがアメリカにおいて大都市などで自己防衛的に形成していった密集居住地ということになる。イコールではないが、スラム街のような側面もある。
つまり、何かの共通点を持った人々が都市における困難から身を護るために集まってきて暮らすようになった場所、というような意味合いで”Ghetto”という単語を使っているのだと思われる。
となると『トーキョーゲットー』というタイトルには、「東京の中で何らかの生きづらさを感じている人たちが集まってきた場所」という意味が込められていると考えることができる。
ただしそれがこの曲の歌詞における「ヒッピーな街」ということであるなら、「僕」にとって良い場所というわけでもなさそうだが。
全体のまとめ
まず「僕」が、「僕」や「君」がいる「ここ」にいる人々の、「一人一人が大切と言いながらも本当は誰でもいいからとにかく同じ場所にいようとする」というような考え方に気づいたことで「呪縛」が解けて、その社会に見切りをつけて「向こう側」つまり外の世界に出ていこうとするところが冒頭の場面。
そこから過去を語る場面に移り、「退廃的」な日常をこの社会で送る「僕」の前に「君」が現れる。
「君」がこの社会に来たのは「僕」よりも後。「全然興味ないって」は当初の「僕」の「君」への感情かもしれないし、もしかしたら「君」がこの社会に来ることになった理由かもしれない。つまり「外の世界に興味がなくなったからここへ来た」という捉え方。ただ、逆に「この社会に興味があったわけではないが来ることになってしまった」という解釈もできるので、確定はできない。
いずれにしてもその後の流れはおおよそ「僕」が思っていたようになり、「君」がこの社会、「ヒッピーな街」の価値観によってそのときの「僕」と同じように「進めなくなった」。要は外の世界へ再び出ることが心情的にできなくなったということだ。
「ヒッピーな街」の人々は直接口には出さないが出ていくような行動を「同調圧力」みたいな空気感で防ごうとしてくるが、「僕」はそれを振り切って「向こう側」、外の世界に出る。
しかし「君」は決心できずに黙ったまま、むしろ「僕」を引き留めることになるような表情を見せる。
だが「僕」は「ヒッピーな街」に戻ることはせず、「君」に語りかける。
このとき「貴方」という言い方をしたのは「憧れ」という遠いものを見るような視点と、二人を隔てる「有刺鉄線」という境界線越しに語りかけているからという二つの意味があるように思う。
しかし一緒に外の世界に出てくることを「僕」が諦めていないため、最後には「君」という身近な相手に対する呼び方をする。
そして伝えたのは、「大事なものを選ぶために手放す事による痛みを受け入れろ」「怖気付けば君はいつまでも進めないままだから」
ということだろう。
おそらく「僕」が「貴方」に憧れたのは、「僕」より後に「ヒッピーな街」に来た「君」と出会ったことで「外」あるいは「自由」のようなものを「君」に感じたからではないかと思う。そこに「僕」がここから出ようと思うようになるきっかけがあったのではないだろうか。
「君」は徐々に「ヒッピーな街」の価値観に囚われて外には出られなくなってしまった。それは「僕」にとって「想像通りだった」。理由は、「僕」もそうだったから。
しかし「僕」が「君」と会ったことによって「外」を感じ、結果的に「外」に出るために行動するようになることまでは想像していなかったのだろう。だから歌詞が「想像通りだった といえば嘘になる」となっているのではないだろうか。
歌詞は「君」に語りかけるところまでで終わっているので、この後に「君」がどうしたのかはわからない。
だが少なくとも「僕」は「ヒッピーな街」に戻ることはなかっただろう。
終わりに
正直なところ「向こう側から突如現れて 気づけば 連れていかれてしまいそうな僕ら」という歌詞が、「ヒッピーな街」に引き戻されそうになっているのか、それとも「好奇心」によって外へ出ていきたい気持ちを言っているのかはっきりと断言できない。
この歌詞の中での「向こう側」はおそらく外の世界だと思うのでどちらかといえば後者のようには思えるが、言葉のニュアンスが絶妙にどっちかわからない。
MVについては、あまり参考にしていない。
もちろん無関係ということはないだろうが、順番としては歌詞が先にできてその後にMVを作り始めることになると思うので、歌詞は歌詞だけで成り立つように作られていると思われるからだ。
それにMVが必ずしも歌詞の説明になっているとも限らない。MVについて歌詞を踏まえてどういうストーリーなのかを考えてみるのは面白そうではあるが。
競争社会から逃れるために都市の中に作られた小さな共同体の価値観は「全部が大事」。競争はしなくてもいいものの、逆に言えば誰かが社会的に成功することを嫌い、何かに挑戦することがそこでは良いことではなくなる。だから「進めない」。
こう考えると、かなり社会的な視点を持った歌詞だ。個人がその中でどうするかという話でもあるが、社会的な構造にも目が向けられているように思う。要は完全な作り物の世界観ではなく、現実の社会にもある構造だということだ。それは「トーキョー」という単語をタイトルに含めていることからもわかるだろう。
というわけで今回はEveの『トーキョーゲットー』の考察をしてきたが、正直難しいどころの話じゃなかった。解釈についての確信もあまりないところが結構ある。大筋は合っているのではないかと思ってはいるが。
『トーキョーゲットー』はアルバム『おとぎ』の二曲目、歌詞のある曲としては一番最初に配置されている。歌詞の内容を考えると、なんとなく意図を感じ取れそうな順番だ。「今に始まる」というところとか。
次のEveの曲も『おとぎ』から取り上げようと考えてはいるが、曲順通りにするかどうかも、何曲やるのかもまだ決めていない。
何せEveの曲だけでも考えてみたい曲はまだまだたくさんある。新しい曲もやりたいし。だからいったんは飛ばし飛ばしになるだろう。
だがそうは言いつつ、次にEveの曲で考察をしようと考えているのは『アウトサイダー』だったりするのだが。