Eve『ナンセンス文学』歌詞解釈・考察|魔法だけでは生まれ変われない




今回はEveの『ナンセンス文学』の歌詞について考察してみたいと思う。タイトルがもう難しい。MVもなんか面白いけどよくわからない。でもだからこそ、考えてみたい。

Eveといえば『廻廻奇譚』や『ドラマツルギー』などの楽曲が有名だ。もちろん『ナンセンス文学』も人気曲と言っていいだろう。

『ナンセンス文学』のYoutubeでのMV公開は2017年5月20日となっており、アルバム『文化』に収録されている。こちらはEve本人が歌唱しているバージョンだ。

一方でボーカロイドの初音ミク歌唱バージョンはニコニコ動画に2017年5月19日公開となっている。

Eveの歌詞はかなり独特で読み解くのが難しい。しかしEveに限らず、意味を読み取るのが難しい歌詞は言葉の意味を考えるよりも、なぜその言葉を選んだのかを考えたほうが理解しやすいと思う。つまり作り手の目線に立って考えるということだ。

歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。

これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。

ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。

というわけで、考察を始めよう。  

しかし正直なところ、どこから始めるべきかが難しい。

改めて歌詞を最初から見てみても、なんとなくの雰囲気しか掴めない。例えば、登場人物は何人なのか。

「僕」と「アンタ」、「あなた」と「アナタ」、そして「君」という言葉が入り混じっているため解釈が分かれることもあるのだろうと思うが、おそらく主要な登場人物は一人か二人のどちらかなのだろう。

とにかくひとまずは最初から読んでいこう。わからない部分をいったん後に回してでも全体として何を言おうとしているのかをまず読み取らなければ輪郭が見えない。

「感情的には」~「嫌気がさしていく」

「感情的」というと要は理性的ではない状態なので、「感情的にはなれない」というときには理性的であるというよりも、感情を爆発させることができないような感じだろう。続く「今更臆病になって」というところからもそのような印象を受ける。つまり感情を爆発させてしまうことに臆病になっている状態だということだ。「今更」という単語にはなんとなく自虐や呆れのような皮肉っぽいニュアンスを感じる。

「研ぎ澄んだ」はいわゆる研ぎ澄まされたという言葉と同じ意味と考えていいだろうと思う。その後に「言の刃」と続くので、研ぎ澄ましたのはその「刃」ということになる。「言」を「こと」と読むことからすると、言葉という意味合いでいいはず。その「刃」なのだから、要は攻撃的な言葉ということだろうか。それを研ぎ澄ましていた、と。

さらに続けて「大事そう 抱え笑って」となる。この部分の歌詞と「吸って吸って 吐き出せない」という歌詞を合わせて考えると、「言の刃」は言葉なので、それを「大事そう」に「抱え」たまま「吐き出せない」。その状態を「臆病になって」、「感情的にはなれない」というように言っているという解釈ができる。

つまり、何か言いたいことがある。これが「言の刃」であり「吸って吸って 吐き出せない」から溜め込まれて、それを「抱え」たまま「笑って」いる。なぜ笑っているのかといえば、「臆病」により「感情的にはなれない」から。言いたいことはあるが表面上は笑っている、というような意味合いに受け取れる。

間の歌詞の「ドクドクドク ハイテンション」は、内面的な葛藤が爆発寸前になっているという感じの心情を表現しているのかもしれない。

ともかく、そういった矛盾したような状態について「へそまがり」という歌詞をあてているのであれば、「アンタ」と言っている対象はそういった、言いたいことはあるのに表面上は笑っているような状態にある者、ということになる。その「アンタに嫌気がさしていく」と。

「真昼のランデブー」~「生まれ変わりましょう」

「ランデブー」は待ち合わせという意味らしいが、デートという使われ方もあった。だいたい男女の、というようなイメージが過去の使われ方としてあったことを考えると、この歌詞の中でもそうなのかもしれない。これだけでは限定できないが。

「ビビディバビデブー」は魔法の言葉だ。ディズニー映画のシンデレラで歌われる劇中歌ということらしい。この歌、言葉自体に意味はないが、この魔法の歌によってシンデレラが破られたドレスに代わるドレスやガラスの靴を与えられることを考えると、悪い状態が好転するような呪文、合言葉のように捉えることができるだろう。

「孤独の愛を 注いであげましょう」の歌詞の受け取り方が少し難しい。愛を注いだなら「孤独」ではなくなるイメージがあることを意識したうえでの歌詞のようにも考えられる。とはいえ、「注いであげましょう」というのが誰かに対するものであるなら、その対象は「ランデブー」の相手、ということになるのだろうか。

しかし「孤独の愛」とは何なのか。ある種の「愛」だが、それを注いだところで結局「孤独」であることは変わらない、といった種類のものなのか、「孤独」である自分が相手に対して「愛」を注ぐということを皮肉った表現なのか。

はっきりとはわからないが、その「愛」ですべての状況が好転するというような印象は受けない。

次の歌詞も「心が病んでく」だ。しかしそこから「僕らは今日」「生まれ変わりましょう」となる。

となると、「心が病んでく」と「僕らは今日」の間に接続詞を入れるなら、『だから』とかになるだろうか。

「心が病んでく」。『だから』、「僕らは今日」「生まれ変わりましょう」のような。

それから、ここで「僕」という一人称が出てきた。歌詞の内容は「僕」の語りである、というのはこの歌詞では特に意識しておかなければならない。ここの部分では「僕ら」と言っているので一人ではないように読み取れる。「ランデブー」と合わせてもこの点に矛盾はない。

生まれ変わろうとする理由が「心が病んでく」こと。そのためにどういったことをするのかは、続くサビの歌詞になる。

「僕ら 馬鹿になって」~「君となら僕は明かしてみたい」

「馬鹿になって」と「宙を舞って」は「今だけは忘れて」「踊りあかそう」に意味が繋がっているのだろうと思う。要は今は難しいことは考えないようにして心を軽くして『踊ろう』と言っているのだと思う。このときの『踊る』はいわゆるダンスのようなことである必要性はない。冒頭に「僕ら」とあるので、その「僕ら」が一緒に無心になれるようなことであればいい。

それによって「夜を沸かそう」と。これは物理的にという面より心情的にというほうが意味合いとして大きいような気がする。

「真昼のランデブー」から時間が経過して「夜」になっているような描写と、さらに「踊りあかそう」、「眠らないように」と言っていることからそれは朝まで、と捉えられるが、このように時間帯を歌詞に含めていることには何か意味がありそうに思える。

一つ思いついたこととしては、サビに入る前の歌詞が昼、サビの歌詞を夜だとすると、昼のほうが不自由で、夜に解放されるようなイメージが浮かび上がってくる。これは例えば学校や昼に働く職場が窮屈に感じていたりする人にとっては共感できるイメージなのではないだろうか。夜のほうが束縛が少なく自由であるような生活だ。

しかしそうであるとすると、「真昼のランデブー」という歌詞には一つ、日常からの逃避のようなニュアンスが現れてくる。本来「真昼」は不自由な場所にいなければならないのに、そこから逃避して「ランデブー」をしている、というような意味合いだ。

そしてだからこそ、「夜」はいつも以上に馬鹿になろう、今だけは忘れよう、という心持ちになっているのではないだろうか。「涙はほいっして」もその一つだ。

「ラッタッタ」という擬音はまさに踊っているステップを思わせるような歌詞だが、二回続いているのは一人ではないことの表現だろうか。

しかし、「嘘になって しまわぬように」の後の「僕じゃない僕にもラッタッタ」のほうが問題だ。解釈するうえでは。

その後の歌詞にも「君」が出てくる。これもまた難しくなるポイントだ。先に「アンタ」も出てるし。どれが誰? 僕は誰? となってしまう。

とりあえずまず、「アンタ」と「僕じゃない僕」は同一のものだと思う。つまり「僕」の中に、言いたいことはあるのに表面的には笑っているへそまがりな「僕」というものがいる、という解釈だ。別人格というよりは仮面というべきだろう。他人に見せている取り繕った己の顔に対して、「僕」自身が嫌気がさしていて「僕じゃない」と感じている、ということだ。

ただこの「僕じゃない僕」と「君」は、おそらく同一のものではない気がしている。なぜならサビの終わりの歌詞が、「君となら僕は明かしてみたい」と願望の形になっているからだ。正直なところ「僕」にとっての「君」が実在する人物なのかどうかは確定的なことは言えないのだが、少なくとも今までは「僕」にとってそれほど近い存在ではなかったのは間違いなさそうだ。

少し戻って「嘘になってしまわぬように」という言葉の意味も考えたい。これはおそらく「僕じゃない僕」は、そう思いたくなくても「僕」の一部であることを認めなければならない、というような意味なのではないか。その「僕じゃない僕」を「僕」とは異なる存在とみなして切り離そうとしてしまうと、それは「嘘」になる。だから認めなければならない。そのために「僕じゃない僕」とも踊る、踊っていることを意識する、というような。

そして最後、「最低で憂鬱な日々でさえ」「君となら僕は明かしてみたい」となる。「君」に対して何かしら希望を感じているような歌詞だ。

「ほらほらそこのお嬢さん」~「嘘ばかりなアンタにXXX」

この「お嬢さん」が「君」と同一人物なのかどうかは解釈が分かれるところかもしれないが、個人的には同一人物であるような気がする。

そもそもここの部分が何を表現しているパートなのか、というところからして難しいのだが、おそらくは「真昼のランデブー」をしている「僕」ではない側のことを言っている部分なのではないかと思う。それが「お嬢さん」なのだとすれば、必然的に「君」と同一人物となる。

ここがそういったパートだと思う理由は、「今更臆病になって」「待って」と「お嬢さん」が言っているように読み取れるからだ。そして「背徳感」に「ドキドキ」している状況もある。

「背徳感」の正体は「真昼のランデブー」をしているという現状から来るものと考えるとしっくりくるし、その感情から不意に「臆病になって」「待って」と言い出してもおかしくはない。

そして、「ぬりつぶされてしまった」「黒く深く灰になって」というのが、「君」のほうの状況や心情だったのだろう。ぬりつぶされたという言い方になっているということは一人もしくは複数人の誰かに何かをされたように受け取れるし、結果が「黒く深く灰になって」ということなら、その影響は良くない方向に働いていると想像できる。

その状況があったからこその「真昼のランデブー」なのだが、「今更臆病になって」しまって「待って」と言いそうになる、もしくは言ってしまったことに対して、「冗談」と返している。

この「待ってだって なんて冗談」と言っているのは「僕」のように思えるが、その後の歌詞が「嘘ばかりなアンタにXXX」となっている。

この「アンタ」はおそらく前回の「アンタ」と同じような存在だが、対象が違う。前回の「アンタ」は「僕じゃない僕」とイコールの存在だと捉えたが、より正確には「僕」にも「君」にも存在している人間の一面を言っているのだろう。言いたいことを自ら抑え込んで表面を取り繕おうとする人間の心の一部分を「アンタ」と呼んでいる感じだ。ここパートの歌詞で言うなら、本当はここでやめたくはないのに「臆病になって」「待って」と言ってしまうようなこと。

その「アンタにXXX」と。もちろん具体的にはわからないものの、いわゆる中指を立てる、みたいな感じかもしれない。NGワードというか。

『ホントの僕はいないんだって』~「馬鹿にされてしまうだろな」

「ホントの僕」から「正解なんてないよ」までがセリフとして括弧に入れられている。中で「僕」と言っているので、「僕」のセリフというか主張なのだろう。

どこで文章を分けるべきかに悩むところだが、「ホントの僕はいない」「自分”らしく”なんて無い」と言っている部分と、その後の括弧を閉じるところまでで分けられるのではないかと思う。

その場合、後の部分の歌詞から考えたほうが意味が分かりやすいかもしれない。「あなたとアナタ」はひとまとめに他人と考えられるので、その他人が「僕のことをこうだって」「それぞれ思うことがあるでしょう」と言っている。他人が「僕」をこうだと思う、それに対して「どれも違う 正解なんてないよ」というのが「僕」の主張だ。

その主張を前提にすれば、「ホントの僕はいない」「自分”らしく”なんて無い」という言葉の意味も理解できてくる。

今までの流れも合わせて考えると、「ホントの僕」や「自分”らしく”」といった社会の圧力というかそれを求められるような空気感のようなものこそが、「僕」や「君」の日常における「憂鬱」に繋がっているということになる。

例えば誰かに褒め言葉としてあなたは○○な人だと言われたとき、それを違うと思っていても直接反論できないと、そのように振る舞わなければならないと思って自分の精神が追い込まれてしまうようなことだ。批判の形をとってあなたは○○な人だと思っていた、などという言い方もあるだろう。いわば他人の言う『本当の自分』を演じなければならなくなるようなこと。

この「僕」の主張はその『本当の自分』なるものを否定しているわけだ。しかしその主張の後の歌詞で、それを言っても「馬鹿にされてしまうだろな」となっているので、この主張はセリフの形式は取りつつ、本当に誰かに向けて発言はしていないのかもしれない。

「愛を知って」~「君が嗤っていた」

二回目のサビ。「愛を知って 傷つけあって」と歌詞にある対象は、「それでも僕らは ラッタッタ」と続くところから、「僕」と「君」のことだろう。「ラッタッタ」を踊っていることの表現であると考えると、「それでも僕らは」一緒に踊る、という解釈ができる。

「僕」と「君」の関係性は「想い明かそう」という歌詞から見るに、表面的に取り繕うようなものではなさそうだ。だからこそ「愛を知って」とも言えるのだろうし、だからこそ「傷つけあ」うこともあり得るが、しかし関係が壊れてしまうことはない。

そして踊りは、「この夜を明かそう」とあるのでやはり朝まで。「涙はほいっして 眠らないように」は一度目のサビと同じ。

ただ、「今日も僕は 歌を唄って」という歌詞と、「この夜」という表現、それに一度目のサビでの「踊りあかそう」「君となら僕は明かしてみたい」、二度目のサビでの「想い明かそう」と「この夜を明かそう」という歌詞を並べてみると、どうやら一度目と二度目のサビは、同じ日のことではない可能性が見えてくる。

「踊りあかそう」というのは踊ってそのまま朝を迎える、というような意味に取れるが、それなら他の歌詞と同じように「明かそう」という漢字をあててもいいはずだ。

にもかかわらずあえてひらがなで「あかそう」となっているのは、「明かそう」という字に含まれるニュアンスがここには無いということではないだろうか。つまり、想いを明かすという心の内を相手に見せるようなニュアンスや、夜を明かすにある明るくなっていくようなイメージが、踊るという行為自体にはない。

けれども、「君となら僕は明かしてみたい」と一度目のサビにあるように、願望としては踊りはしつつも『明かしたい』というのがあった。それが二度目のサビの歌詞で、実際に行動に移したことが示されている。つまり関係性が一度目のサビから二度目のサビで進んで行っているわけだ。

この関係の変化があるからこそ、「この夜」は前とは別の日であり、「今日も」とあるように少なくとも二度以上は「僕」と「君」は踊っている、ということになる。

とはいっても、「この夜を明かそう」は現状を変えようという意味合いのたとえとして言っている可能性もあるし、「今日も」のほうもいつものように、のような受け取り方もできるので、確定できるわけではない。ただ、「最低で憂鬱な日々」を「君」と「明かしてみたい」という部分からすると、二度目のサビはやはりいくつかの「日々」を「明かし」た結果として至ったある日、というふうに考えるのが自然なようには思う。

「歌を唄って」の歌詞にも表記の問題がある。歌うと唄うの漢字の違いだ。どうやら、『唄う』には語るようなニュアンスがある、らしい。「今日も僕は」に続く歌詞であり、そこから繰り返していることがわかる。

そしてそこに語って聞かせるようなニュアンスがあるのだとすると、「僕」が語りたいことこそがこの歌詞の中での「歌」のテーマそのものなのだろう。つまり「今日も僕は 歌を唄って」の意味は、「僕」が語りたいことを語ることのできる場所がここにあるということに他ならない。

そしてその内容は「僕じゃない僕」と深く関連していることは明らかで、その存在と一緒に踊るということは、ある種自分の中にいるもう一人の自分と対話するような感じだろうか。そちらが表面的に取り繕うような自分なのだとしたら、手を掴んで引っ張り出すような感覚かもしれない。踊りに誘い、リードするようなイメージだ。

二回目のサビの終わり際で、何らかの「最終兵器」が出てくるが、もちろん実際の兵器などではなく『最後の手段』に近い何かだろう。あるいは『奥の手』だろうか。「余裕ぶった」という言い方からは、逆にある種のリスクやデメリットを覚悟しての行為であろうことが読み取れる。簡単に取れる手段ではないが、それを「忍ばせて」「君が嗤っていた」のなら、その手を使うつもりなのだろう。

『嗤う』という字は相手を見下しあざけり笑うような意味があるらしい。この場合相手どうこうよりも、「余裕ぶった」振る舞いとして見下すような笑みをあえてした、と考えたほうが良さそうだ。



「感情的にはならない」~「もう飽き飽きだ」

ここのパートの歌詞は『覚悟を決めて行動に移す』ことを、今までの歌詞を踏まえて表現していると言っていいだろう。

「感情的にはならない」は冷静に行動するという意味でいいだろうが、冒頭の歌詞「感情的にはなれない」と比較することで感情的に大きな変化があったことが理解できる。次の「今更恐怖はないな」も同じで、「今更臆病になって」という歌詞とは対照的だ。

「研ぎ澄んだ言の刃」に関しても、「大事そう 抱え笑って」から「何1つ無駄はないな」と変化している。そしてこの表現から「言の刃」は単に攻撃的な言葉というより、むしろ相手の主張や考えを退けるための言葉、という感じがする。それが万全であることを「何一つ無駄はないな」という言葉で表現しているのだろう。

「ハイテンション」はこの場合、まさに行動に移そうとしているからだろう。「吸って吸って 吐き出して」も、「吐き出せない」という歌詞から明確に変化している。

そして、「へそまがりなアンタにはもう飽き飽きだ」と行動に移るのだろう。しかし衝動的な行動ではなく「ハイテンション」ながらも冷静に、そして準備もしてきたのであろうと思われる描写だ。時が来た、みたいな印象も受ける。

「真昼のランデブー」~「枯れる前に 生まれ変わりましょう」

最後のサビの前の歌詞は前半は同じ。「真昼のランデブー ビビディバビデブー 孤独の愛を注いであげましょう」は「僕」と「君」がこのときも一緒に真昼にいて、その後夜に踊ることを示している。

しかし次の歌詞は違う。「魔法も 解けて 枯れる前に 生まれ変わりましょう」だ。

「枯れる」という言葉と関連しそうなのは、「注いであげましょう」だろうか。そこから考えると、「孤独の愛」を注ぐことは「魔法」のようなものであり、別の言い方をするなら一種の幻のようなものと捉えることができるのかもしれない。さらに別の言い方をするなら、つかの間の逃避のようなことで、「憂鬱な日々」を耐えられる効果はあるが、いつまでもそれだけではいられない。「憂鬱」が解消されるわけではないからだ。その「魔法」が「解けて 枯れる前に」「生まれ変わ」らなければならない。

「僕ら馬鹿になって」~「君になら僕は任せてみたい」

ここの歌詞を見ると、おそらく本当に行動を起こすのはこの後なのだろうと思う。そうだとすると、「この夜」はいわば決起会のようなものなのかもしれない。行動を起こすことを決めた後で、「今だけは忘れて」踊るというような。

最後の部分以外は同じ歌詞だが、「嘘になって しまわぬように」にはもしかしたら行動を起こすと決めたことを嘘にはしない、のようなニュアンスもあるかもしれない。

歌詞の終わりは、「絶対的ナンセンスな事でさえ 君になら僕は任せてみたい」。

この「絶対的ナンセンスな事」というのが前に出てきた「最終兵器」を使うようなことなのだろう。「ナンセンス」とは無意味なことやくだらないことという意味らしい。

しかし今まで見てきた限り、それが無意味とはあまり思えない。ただ、状況に対しての最適解ではない可能性はあるかもしれない。となると、ここでの「ナンセンス」は、現在の状況に対して「最終兵器」を使うことで必ず状況が好転するとは限らない、むしろデメリットも大きいかもしれないということを言っているのだろうか。

一つ明確なのは、今まで口に出さなかったことを口に出すことになるはずなので、それによって周囲と関係が悪くなるだとか人を傷つけることになる可能性はある。そういったデメリットが明確にあるとわかっていながらそれをするということを、「絶対的ナンセンスな事」と言っているのかもしれない。

しかしそれでも「君になら僕は任せてみたい」と言っている以上、それをやることは決めている、それをする意味があると感じているということだろう。

ひととおり読んで気づいたこと

「ビビディバビデブー」はディズニー映画の『シンデレラ』に出てくる魔法の言葉、歌だ。そしてこの曲の歌詞にも「魔法」という単語がある。さらには「黒く深く灰になって」という歌詞も『シンデレラ』と関連していると思われる。何せ『シンデレラ』の異称が『灰被り姫』だ。

「魔法も 解けて」という歌詞は12時になると魔法が解けてしまうというところから来ているのだろうし、それだけでなく『踊る』という行為も『シンデレラ』が舞踏会で王子と、というところから来ていると考えられるので、この曲の歌詞を読み解くキーワードとして『シンデレラ』があるのは間違いないだろう。

もちろん『シンデレラ』のストーリーをそのままなぞっているわけではないが、苦境から始まり魔法により踊りに行くことができる、というまでの流れはおおよそ一致している。

しかしその後の流れは『シンデレラ』とは異なり、自分たちで状況を打破しようとしている。その違いを浮き彫りにする意図をもって『シンデレラ』を歌詞に取り入れたのかもしれない。

それから、歌詞の中における言葉遣いに少し特徴がある。「注いであげましょう」や「生まれ変わりましょう」の部分だ。それから「ほらほらそこのお嬢さん」。これらは『シンデレラ』が童話であることから、童話的な言葉遣いや表現を使ったのかもしれない。

『ナンセンス文学』というタイトル

もう一つ忘れてはならないことは、曲のタイトルである『ナンセンス文学』だ。

しかし、曲タイトルである以前にナンセンス文学はそれ自体が一つのジャンルだ。ここが個人的にはとても厄介なところ。なにせもともとの知識がない。

しかし調べた感じでは、ナンセンス文学とは無意味を意図的に作り出しユーモアとする、というような文学のことらしい。意味が無い、わからないような文章に見えても、無秩序ではなく実際は意味の過剰によって成り立っているユーモアである、と。やはりよくわからない。

歌詞の中に「ナンセンス」という単語も出てくるが、そこでの使い方はその言葉のまま、『ばかげたこと』『くだらないこと』、『無意味なこと』のような意味で使われているように思う。

一方で曲タイトルの『ナンセンス文学』のほうはどうだろうか。

最もわからないのが、『ナンセンス文学』の歌詞にはナンセンス文学的手法が含まれているのかどうか。少なくともユーモアの表現としての歌詞という感じはあまりしない。

むしろストレートに、「ナンセンス」なことをそれでもあえてする意味について表現した歌詞と捉えたほうがいいかもしれない。

だからタイトルにしても、この曲の歌詞がナンセンス文学そのものである、という意味ではなく、

ナンセンス文学というジャンルが持っている『無意味をあえてすることに意味を見出す』というようなニュアンスを込めて、『ナンセンス文学』というタイトルにしたのかもしれない。

まとめ

ストーリーとしては、周囲から抑圧されて憂鬱な日々を送る男女が、そこから逃避し夜に「踊る」。それを繰り返すうちに、「踊る」という行為だけでは問題が解決しないために、おそらくは周囲に対して自分たちの想いをぶつけようと決意する。それによって逆に良くないことが起こるとしても。と、そのように解釈した。

もちろんこれが唯一絶対の解答であると言うつもりはない。

それにこの歌詞の面白さはその表現方法にあると思う。なにせ、こうして細かく解釈してみなくても、なんだか暗めというか憂鬱な印象の入りや、サビでのどこか無理矢理にでも気分を高揚させるような歌詞から、この曲に対するイメージはわりとそのまま受け取れる。

このよくわからないけどなんとなくのイメージは沸く、というのが歌詞としてかなり重要なことなのだろうと思う。

それで言うならMVもそうだろう。

「踊る」歌詞とよくわからない登場人物というか異形のモノなど、歌詞の内容から発想を広げて作られたような印象だ。ナンセンス文学というジャンルの話でよく出てくる『不思議の国のアリス』のように不思議な存在が当たり前のように出てくるというのも、タイトルから導かれた結果、なのかもしれない。

終わりに

今回初めてEveの曲を考察してみたが、思った通りというか思った以上に難しく、面白かった。曲自体は何度も聞いていたし、歌詞もそれなりに読んではいたが、こうしてちゃんと考えてみようとするまでは正直まったく意味がわかっていなかった。それこそ曲自体の印象と聞こえる言葉から受けるなんとなくのイメージしかない状態だ。

しかし一つ一つの言葉の使い方や表現の仕方を見ていくと、相当コントロールされたものであることがわかる。相応に時間もかかっているはず。簡単に作れるような歌詞ではない。

ところで、この曲の歌詞の意味を考えている間に思っていたことに、以前考察したナユタン星人の『飛行少女』と少しテーマが近いのかもしれないということがあった。

ナユタン星人はEveに曲提供したこともあるし、関係性はあるはず。同時代に活動しているし、どちらも少年少女の曲が多い印象がある。もちろん違いも多いが、テーマが近いことがあるのは不思議ではない。

だが近いテーマであるからこそ、その表現方法の違いが表れていて面白い。特に、こちらの歌詞での「真昼」から「夜」へと場面が変わる部分については『飛行少女』での考察https://najiitishi.com/music/hikousyoujo.htmlが頭に浮かんでいた。要はこれだけの時間経過があるということはそこに何らかの意味があるはずという考えが、ナユタン星人の歌詞を元に浮かんできたわけだ。

今後、Eveの曲の歌詞考察もしていきたいが、基本的にはMVが公開されている曲を中心にやっていきたいと考えている。絶対と決めているわけではないが。

問題は、現状ほとんどの曲で歌詞の詳しい意味についてさっぱりわかっていないところにある。だって難しいし。

どれをやることになるにしてもそれなりに時間はかかってしまうだろうが、意外な発見が今回多くあり楽しかったので、またやりたいと思う。