今回は「ナユタン星からの物体Y」の五曲目に収録されている『エキシビション空中戦』の歌詞について考えていく。
『エクストリーム空中戦』に続く「空中戦」のシリーズ二作目、ということになるだろう。
『エクストリーム空中戦』を二人はやめない
https://najiitishi.com/music/extremekuutyuusen.html
歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。
これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。
ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。
そして敬称は略させていただく。
というわけで、考察を始めよう。
「また ナイタービジョンで」~「正常性」
「ナイトビジョン」なら「暗視装置」。暗闇でもよく見えるようにする機械で、「ナイター」のみなら主に野球などの「夜間試合」を意味することが多い。「ビジョン」のみなら「視界」や「目に映った映像」、あるいは「幻想」や「将来に対する見通し」といった意味がある。
この曲の歌詞の中で「ナイター」だけで使われている部分が別にあるので、おそらく「夜に行われている試合のようなことの中での光景」みたいな意味だろう。もう怪しい。
そしてその光景がある場面で「不安定に憶えた」のは、「愛と仕草」だそうだ。さらに怪しい。
その「愛と仕草」での「攻防」における「正常性」が「空中分解寸前」ということらしい。
この時点であっち方向に振り切ってしまうのは容易いのだが、そっちはそっちで断言できるわけではないため、やはり解釈の幅は残したい。
ということで、まず確定しているのはシチュエーションが夜であること。
そして後で出てくることから「あなた」と「わたし」がいる。
最初に「また」とあるので、これは何回も繰り返されていることである、という感じか。
それと「愛」と「仕草」に関する「攻防」というのが、おそらく歌詞全体に渡って描かれていると考えていいように思う。
二人で何をしているかはともかく、それは二人で繰り返す中で手探りで覚えていった「愛」と「仕草」であるらしい。そしてそれが原因なのかどうか、「正常性」が「空中分解寸前」、つまりまともな状態じゃなくなる寸前のようだ。
頭が混乱しかけているのか、感情が混乱しかけているのか、はたまた二人の関係が混乱しかけているのか、それぞれで少しずつ意味が変わってくるだろう。
ひとまずはどの可能性も排除せずに先に進む。
「ほら心を 繋ぎ合って ねえ」
ここは「ほら」と「ねえ」に着目しするなら、「そのようにしたほうがいい」だとか「そうしないといけない」のような、相手を促すようなニュアンスと考えられるだろうか。
歌詞は「わたし」側の言葉や想いであるはずなので、「あなた」に対して「心を繋ぎ合おう」と言っていることになる。
ただ、「繋ぎ合う」という言い方なので「わたし」のほうもただ相手が動くのを待つという感じではないだろう。
つまりはお互いに「心を繋ぎ合う」ということを試みよう、というニュアンスだろうと思われる。
「大体 タンデム飛行じゃ」~「エキシビション」
「タンデム飛行」は二人乗りでの飛行のこと。自転車の二人乗りのように基本的に前後に並ぶ配置らしい。スカイダイビングでベテランが後ろ、初心者が前でパラシュートの操作をベテランがする形になるのが一般的、なのだろうか。
その「タンデム飛行じゃ 無理があったバランス」とあるので、二人は今別々に「飛行」しているということになるだろう。
「バランス」というのは二人の関係のことだろうから、ベテランと初心者みたいなことを言っているのだとしたら、どちらかがリードしてどちらかがそれに従うような関係が、この二人にとって「無理があった」ということかもしれない。
「今夜」とあるので間違いなく夜に、「すべて見せよう」と言っている。「ここからはエキシビション」だとも。
タイトルにもある「エキシビション」は、「展覧会」という意味や、「スポーツや芸術におけるパフォーマンス」のような意味があるらしい。
「ナイター」ともあったのでスポーツにおける「エキシビション」が近いだろうか。その場合本気で勝ち負けを決める試合ではなく、パフォーマンスを披露する場という意味合いが大きいだろうと思うので、「すべて見せよう」ともある通り、「見せることに重きを置いて二人で何かをする」ということだろう。
ただ、「見せる」と言ってもそもそも二人しかいないはずなので第三者にとは考えにくい。となると互いにということなのか、「わたし」が「あなた」にということなのか。
「あなたとわたしの」~「肯定中」
「空中戦」=「あなたとわたしの感情前線」であるとまず読める。「空中戦」という言葉は「航空機同士の戦闘」の他にも、「資料などがなく発言のみで議論がされること」や、「発言のやり取りが続くばかりで結論が出ないこと」という意味もある。例えとしての「空中戦」の場合には、「地に足がついていない」というニュアンスがあるということだ。
「前線」は「敵陣と直接向かい合う場所」。なので「あなたとわたしの感情前線」は、「あなたとわたしの感情がぶつかり合っているという状況」のことだろう。それが「空中戦」だというのなら、いわば「足元が固められていない」状態で感情をぶつけ合っているというような意味合いなのだろう。
つまり二人の関係はまだ固まりきっておらず、着地点が定まっていない。しかし夜に何度も二人でいるくらいには親密ではある、というある種浮ついた不安定な状態なのだろうと思える。
そう考えると、「愛せる様に 感じられる様に 交戦中」の意味も、二人の関係性をぶつかりながらもなんとか良い方向に進めていきたいというニュアンスを読み取れる。「感情のぶつかり合い」は喧嘩ではなく、本当は伝えたい感情を適切な行動で伝えられてはおらず、「正攻法ではない向き合い方」というようなことなのかもしれない。
そしてそれこそが「間違う様に愛している」という歌詞の意味に繋がるようにも思える。「戦い」の例えを使うことから、ぶつかり合うような感じや不安定な感じが二人の間でのコミュニケーションにはある。それは反対の安定したコミュニケーションを考えると、穏やかで感情の揺れが大きくなく安定して長く続くように思える関係ということになるだろうから、要はその逆だ。
激しく、感情の振れ幅が大きく、不安定な関係であることが「間違う様」という言葉の意味するところなのではないか。しかし、二人はそれを「肯定中」。それでいいと思っている、というニュアンスだろうか。
「急転直下のフォーリンラブ」は、二人がこういう関係性になった理由なのかもしれない。「フォーリンラブ」はFall in loveで「恋に落ちる」という意味なので、二人は「急激に恋に落ちた」ということになる。
「頭が逆さま」は「真っ逆さま」みたいなことで、順序が逆だとか順序を飛ばすだとかいうことと、「頭」を「理性」のように捉えるなら、「理性」で行動できずに「感情」で行動してしまうような精神状態、みたいにも考えられるかもしれない。
要するに「急激に恋に落ちた」ために二人ともその状況にうまく対応できておらず、冷静に適切に相手に感情を伝えることができずに、感情のままぶつけ合っている、というのがここの部分の歌詞の意味なのではないかと思う。
「ほら自由に 飛びまわって ねえ」
「肯定中」とも歌詞にあった通り、やはり二人の間では感情でのぶつかり合いはタブーであったりはしないようだ。むしろ積極的にそれをしているようにすら感じられるような表現。
「また ナイター途中で」~「シグナルを捜す」
「ナイター」は同じだろう。夜にしているこの「空中戦」のこと。「また」とあるので別の日のことなのかもしれないが、シチュエーションはほぼ変わらなさそうだ。
「曖昧に途絶えた」のは「シグナル」。何の「シグナル」かと言えば「脳内愛情区域の」、ということらしい。だいぶ難しい。
とりあえず、「脳内」の「シグナルを捜す」ということは、相手ではなく自分の話だということになるだろう。自分の気持ちや思考のことだと推測できる。
「捜す」は見失ったものをさがすことなので、もともとあった「シグナル」を見失ったということで、それが「曖昧に途絶えた」という表現と繋がっている。
問題はその「脳内愛情区域」の「シグナル」が途絶えてそれを捜すということが「わたし」にとってどういうことなのかだが、どうもここの歌詞だけではいまいちよくわからない。とりあえず後回しにしておく。
「いっそ 遊覧飛行で」~「それを許さない」
「遊覧」は「見物して回ること」で、「イージー」はEasyで「簡単な」とか「気楽な」などなので、言ってみれば「他人事のように見て楽に逃れたい」というような意味になるだろう。
しかし、「撃ち抜かれた心臓は それを許さない」。
最初に「いっそ」とあるので直前の歌詞と繋がっているというところから考えると、「脳内愛情区域」の「シグナル」が途絶えたから、「いっそ」楽に逃れたいが「撃ち抜かれた心臓」がそれを許さない。だからその「シグナル」を捜す、というように読める。
だとすると「脳内」と「心臓」の対比が見えてくる。つまりそれらは「頭」と「心」に言い換えられるのだろう。
つまり「頭」では相手への「愛情」を見失っている。つまりどこが好きだったのかわからないような状態だ。ぶつかり合っていればそういうタイミングもあるだろう。
しかし「心」はもう撃ち抜かれているのだから、好きではあるわけだ。だからこそ他人事のように冷静には見られないし、絶対にあるはずの好きなポイントを捜す。と、このあたりはだいたいそういった意味の歌詞なのではないだろうか。
「あなたとわたしの」~「なんて言おうと肯定中」
繰り返しになっていない部分は、まず「愛せる様に 感じられる様に」が「抗う様に 奉じる様に」に変わっているところだ。「抗う」が「従わないで争う」や「逆らう」、「抵抗する」ということで、「奉じる」は「差し上げる」だとか「承る」、「捧げる」、あるいは「つつしんで勤める」のような意味になる。
「抗う」と「奉じる」はほとんど反対の意味で使っているのだろうが、「愛せる」と「感じられる」は同じような方向の言葉に思える。それでいて、実際はすべて同じような場面でのことなのだろうとも思う。
要するに、「相手には喜んで欲しいけれども自分を下げたくはない」というような意識がお互いに表に出ていて、それがぶつかり合っているという認識で良いのではないだろうか。そういう「交戦」なのだと。
そして変わっている箇所がもう一つ。「悲観しないアイに 何て言おうと肯定中」。
ここはかなり意味を広く取れる歌詞だと思う。「アイ」が英語での「わたし」と、この曲の歌詞に出てきた「愛」と、おそらく「Eye」つまり「目」の意味が重なり合っているとすると、「悲観しない」のは「わたし」でありつつ、自分たちの「愛」でもあり、さらに相手の「目」でもある、ということになる。
そこでまたそれらに対して「なんて言おうと」となっているが、「わたし」という意味を取り出して捉えるなら「ぶつかり合っている自分たちの状況を悲観しないわたし自身に、わたしが何か(自分の反省のようなこと?)を言うべきなのかもしれないけれど肯定中(それでいいと思っている)」のような感じ。
「愛」で考えるなら、「ぶつかり合っている自分たちの間にある愛を自分たちが悲観してはいないから、誰が何をどう言おうとわたしたちは肯定している」のようになる。
そして「目」だとするなら、「ぶつかり合いの中で自分のことを悲観しない(要はまだまだぶつかることをやめようとはしていない)あなたの目に対して、わたしがどう言ってさらに感情をぶつけようかと思っているような今の状況は、決して自分たちにとって悪くない状態である」というような意味合いになるだろう。解釈が大変だ。
「お空の彼方へ 急転直下のフォーリンラブ!」
「フォーリンラブ」にある「落ちる」というニュアンスとは逆に「お空の彼方」へ飛んでいく。「急激に落ちるように上がっていく」という動きがイメージできる。
これがそれこそ「恋に落ちた」瞬間の表現だとするなら、いわば地上にいた二人が「恋に落ちた」ことによって空に昇って「空中戦」を始めることになった、というような意味になるだろうか。そしてその空中戦をずっと続けているのが今である、と。なんだかMVが作れそうな描写だ。
「あなたとわたしの」~「交戦中」
「決勝戦」となっているが、もちろん最初から二人しかいない。
そしてその「決勝戦」は「四六時中」とあるので、「夜」だけに限らないようだ。ということは、そもそもこの「空中戦」は始まったその瞬間から「決勝戦」であり、それは「夜」に限るようなものではなかったのかもしれない。
「夜」に「愛と仕草で攻防」とあったので、夜に二人でしていることに今まで焦点を当てていたのを、二人が恋に落ちてからの生活全般にも拡大して当てはめた形だ。実は全部がそうだった、という感じの歌詞の流れ。
「奪いあう様に 与えあう様に」は「抗う様に 奉じる様に」のときと同じように考えていいだろう。「自分も欲しいけれど相手が欲しいのもわかっている」、「互いの愛が」のような。
「間違う様に愛していたって 善戦中!」
ここまで来ればこの歌詞の意味もわりとすんなり入ってくるのではないだろうか。
まとめ
急激に恋に落ちた二人の関係はある意味で不安定であり、常にいろんなことでぶつかり合ってはいるが、その状態をお互いに駄目だとは思っていない。それでいてさらに良くしていこうとも思っている。
「夜」に二人の間で行われる「愛と仕草」による「攻防」が主な場面ではあるが、実際は二人は常にそれをしているのだから、特定の行為というより二人の間でのコミュニケーション全般の話をしているのだろう。
タイトルについて
しかしやはり問題はタイトルだ。「エキシビション」を「パフォーマンス」というふうに捉えると、やはり誰に見せるのかという話になってしまう。
ヒントになりそうのは「悲観しないアイに 何て言おうと肯定中」の歌詞だ。
このとき「アイ」を「愛」として考えたなら、「誰が何と言おうと」という意味になってくるのだと思うので、いわば「世間一般」が対象になっているのかもしれない。
つまり、「わたしたちの愛は世間一般から見れば間違っている様に見えるかもしれないけれど、わたしたち自身はこの状態を肯定している」ということであり、それを恥じたり隠したりしなければならないとは思わないから「すべて 見せよう」とあるように「二人の愛を世間に見せてしまっても構わない」、「見せつけよう」という心情があり、だから「エキシビション」ということなのではないだろうか。
ちなみにだが、エキシビ《ジ》ョンではなくエキシビ《シ》ョンだ。筆者のように間違って覚えてたりする人もいると思うので一応書いておく。『ミステリーサイクル』に続いてナユタン星人の曲だけで二回目。
終わりに
「愛と仕草で攻防」、それも「夜」に、というのと「~中」の歌い方などによりものすごい勢いで解釈が一方向に引っ張られるのが最大の問題点。いや別にそれも間違いではないのだろうが。
しかもそこに「すべて 見せよう」という歌詞まであるのだから大変だ。大変なことだ。
ナユタン星人の曲にはたまにこういう雰囲気の歌詞が含まれているような印象があるが、解釈や考察をするうえではそちらの可能性は消さないまでも、一種のミスリードのようにいったんは捉えてやっていかないと、考察の内容そのものがなんというか、ナユタン星人っぽくなくなってしまう。
そしてやはり確定的な言葉を選ばないのには意図があるはずであり、それが解釈の幅を広げるためのことであるのなら、なるべくこちら側で狭めてしまわないようにはしておきたい。難しい場合もあるだろうが。
とにかく『エキシビション空中戦』の考察はなんとか終えたが「空中戦」はまだある。しかしナユタン星人は基本的には順番通りに考察していきたい。
なのでナユタン星人の次の曲は、『火星のララバイ』。こちらもこちらでシリーズもの。その二作目だ。