Eve『お気に召すまま』歌詞解釈・考察|手を取りあって、この先も




今回はEveのアルバム『文化』より『お気に召すまま』の考察をしていく。

初音ミク歌唱バージョンが2017年11月28日にニコニコ動画で、その翌日の29日にYoutubeでEve本人の歌唱バージョンのMVが公開されたようだ。

これもかなり有名な曲と言っていいだろう。MVのインパクトも強い。が、歌詞の内容ははっきりわからない人が多いのではないかと思う。

歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。

これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。

また、歌詞の一部分を抜き出してその意味などを考察しながらひととおり解釈した後に、改めて全体を考察するという形式を取る。

ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。

そして敬称は略させていただく。

というわけで、考察を始めよう。

「淡々 言葉を吐いた」~「終わりにしないか」

淡々と言ったのは「あんな思い出に泣いたのは 今日で終わりにしないか」。過去に何かがあったことが原因で、今日までおそらく何度も泣いた。それを今日をもって終わりにしないかという提案。

いくつか気になるところがある。まず「淡々」というのは態度などがあっさりしてこだわりがない様だが、それがなぜなのか。

「あんな思い出」とは何か。「泣いた」という言い方をするということは、発言の相手だけでなく発言した側も「泣いた」ということなのかどうか。

どうもこのあたりの疑問をはっきりさせることはそう簡単なことではなさそうだ。

細かい部分を詰めていくより、全体像をおおまかに掴むように考察したほうがいいかもしれない。そもそもがかなり抽象的な歌詞だし。

ということで想像力を駆使して考察してみると、まず後の歌詞に出てくることから「僕」が発言した側で「君」がその相手と考える。

二人には共通の思い出があるが、それは良い思い出とは言えず何度も泣いてしまうようなもの。しかしそればかりでは仕方ないと思ったのかどうか、とにかく今日でそれを終わりにしようと言った。淡々と言った理由として考えられるのは、泣くことによって感情を吐き出したためだろうか。一区切りをつけるような心持ちかもしれない。

つまりこの部分の歌詞は再出発のような場面ではないかと考えることができそうだ。

「1,2の合図を待って」~「フェイズ」

「合図」が何のことかはわからない。一般的な使い方としては前もって決めておいた方法で物事を知らせることだ。

「ユーエンミー」はYou and meのことで、「手を取りあった」とあるので「僕」と「君」の二人がそうしたというのはそのまま受け取っていいだろう。

そしてそれは「僕の勇気ある行動」とあるので、「僕」のほうからそれをしたと考えられる。

というところから逆に考えると、「合図を待って」ともあるので、「君」からの何らかの「合図」があったと捉えられる。

想像しやすいシチュエーションとしては前の歌詞からの連想で、例えば「君」が涙を拭いたとか立ち上がったというのを「合図」と捉えて「僕」が手を差し出した、というような感じか。

最後の「フェイズ」は意味としては「段階」や「局面」。MVでの歌詞の表示を見るとその後に<1>と書かれているので、単純に一段階目とかそういうことだろう。何の、というところに関しては後で考えたほうがいいと思われる。

「立ち止まんないで」~「言わないでね 言わないでね」

「立ち止まんないでいい」は歌詞の流れ的には理解しやすい。「僕」と「君」が手を取りあった後に、いわば前を向いて歩きだすようなイメージを思い浮かべれば、そこで「僕」が「君」に言うセリフとしては不自然なものではないだろう。問題は次だ。

「空々しい」の意味は「誠意や真実味がないことが見え透いていること」。特に「中身がないことでどこか不自然でわざとらしい」というニュアンスらしい。だから「空々しいこの人生」という言い方からは、どこか自分の人生に空虚感があって、ある種他人事みたいに感じられるというような印象を受けるが、どうなのだろうか。

「できないだなんて 言わないでね」は、いわば「とりあえずやってみよう」の言い換えみたいな感じに考えられる。意味としてはそういうことだろうが、言い方から受け取れるニュアンスとしては、「君」が「できない」と言ってしまうことがあるかもしれないと「僕」が思っているような感じ。つまりまだ少しネガティブな感情が今もあるか、あるいは後に出てきてしまうかもしれないと思っていて、それを励まそうとしているような雰囲気がある気もする。

「今更なんて 言わないでね」

ここも同じようなニュアンスだろう。「今更」という言葉にもネガティブなイメージがある。今更そんなことしても、みたいな使い方だ。それを「言わないで」と。

何かしら行動を起こそうとしているような印象を受けるフレーズが続いているが、やろうとしていることはあってもできるかどうかはわからないような感じだ。ということはそれは何らかの挑戦をするような感覚がある事柄なのだろう。

それに対する不安をネガティブな言葉で表して諦めてしまいそうな雰囲気がありそうな「君」と、「君」を励ましているような導いているような、という雰囲気の「僕」という構図。

「僕ら今」~「でも離れてく」

「僕ら」は他に誰かがいるような描写もないので、「僕」と「君」ということでいいのだろうか。二人で「輪になる」と言えば、向かい合ってそれこそ「手を取りあう」ような状態が思い浮かぶ。そのまま「回り始める」。

他に誰かが何人もいるということも考えることはできるが、主に重要なのが「僕」と「君」である点は変わらないだろう。

ただ、この歌詞を実際の情景として捉えてしまうと、光景はイメージできても歌詞にどんな意味があるのかというところに辿り着けない。だから何かの例えとして考えたほうがいいのだろうと思う。

そうすると、二人が一緒に回り始めるということだから、二人が協力して持続的な何かをし始めたというように捉えられる。「回る」というのはずっと繰り返せることであるため、この先もずっと続けていけるような事柄なのだろうと解釈した。

「段々嫌になって」「でも好きになる」のはその二人でしていることか、あるいはお互いのことのほうかははっきりしない。というか両方かもしれない。

だいたいの事柄は自分たちで始めたことでもずっと続けていると嫌になってくることはあるだろうし、しかし一方で愛着もある。人間同士でも嫌なところが目につくのはある程度相手を知った後のほうが多いが、一緒にいる時間が長くなれば好きなところを再確認する機会も増える。そもそも好きなところがなければ一緒に何かを始めることもないだろうし。

「わかんない」のは、おそらくそういう好きになりつつ嫌になることもあるという自分の感情や心のことを言っているのだと思う。

それを「自分会議」、要は自分の脳内でいろいろ考えてみても結論をはっきりさせられないことを、「どんどん 中に寄って でも離れてく」と表現したのだろう。

「中に寄る」というのはいわば答えに近づいていくことだろうが、感情や心については「自分会議」で頭に浮かびそうな「どうする?」だとか「どうなってる?」みたいな言葉で答えに近づいていっても、本質が感情や感覚であれば言葉だけでは表しきれない。そこには言葉以上に感覚があり、ある感情を抱いている状態がどういう感じかというのは言葉では表現しきれない部分がある。

だから言葉で表そうとすることによって逆に感覚を理解することから遠のくというような意味合いとして、「中に寄って でも離れてく」という歌詞を解釈できるのではないだろうか。

少なくとも「寄る」と「離れる」は逆の意味だがこうして並んで表記されているため、「寄る」ことによって逆に「離れて」しまうという、やろうとしていることとは逆の方向に意図せず進んでしまう、というようなニュアンスがあるのは確かだろうと思う。

「ぱっぱっ」~「シェイクシェイク いえい」

「輪になって回る」ことと「音に乗って踊る」ことは同じことを示していると考えていいと思う。要は「音に乗って輪になって回りながら踊る」という、一つの場面の描写を二つに分けたような感じだ。

だとするとその意味するところもだいたい同じだろう。二人で一緒に何かをし始めること。ただ、「回る」に比べると「踊る」のニュアンスには緩急というか抑揚というか、ただ同じことを続けるというのとは異なるイメージがある。「音に乗って」もそうだ。

つまり持続的ではあっても単調ではない。それこそ「輪になって踊る」というやつだが、何かの例えとして捉えるのであれば、単調ではないということは浮き沈みがあるようなことだろうから、楽しさを求めてのことであっても一種のチャレンジ的な意味合いも含むのかもしれない。要は二人で一緒に何か長く続いていくような挑戦を楽しみながらもするようなイメージ。

「段々」からかなり強めな表現の「散々」になってはいるが、「嫌になって でも好きになる」のは同じ。変わったのはギャップの大きさだろうか。

そういった揺れ動く自分の心について「わかんないや」というのも先ほどと変わらないが、「この先もずっと 僕の心をシェイクシェイク」と続くので、おそらく「君」に対する心情が揺れ続けて定まらないということだろう。「シェイク」は振ることや振動の意味なので、「君」からの影響を言っているのだろうと思う。

ただ、揺れ動きはしているが「この先もずっと」と言っていることから、離れるつもりはないことがわかる。最後も「いえい」で終わるので、基本的には楽しそうな雰囲気。

「大正解なんて」~「終わりますか」

「一体どこに向かえば 物語は終わりますか」という問いかけを踏まえると、「大正解」はほとんど「大団円」みたいな意味だと思われる。ただ、一件落着のようなニュアンスの「大団円」より、もっと完全無欠のハッピーエンドのようなイメージなのが「大正解」なのだろう。

そういったハッピーエンドはない、ならどうすれば物語は終わるのかという問いかけの歌詞だ。

おそらくは人生を物語に例えているのだろうから、絶対に正しいという選択はなく、いつまで続くかわからないから今自分がどうすればいいのかもわからない、というような不安感や迷いを表現しているように思える。「終わりますか」という問いかけの仕方は「終わらせたい」という想いがあるからこそ出てくる言葉だろう。

歌詞の流れとして考えると、過去のある時点での心境を語っているのではないだろうか。つまり泣いたという「思い出」の場面での心境。

「1,2の合図を待って」~「フェイズ」

「手を取りあったのは」が「手が触れあったのは」に変わっていて、MVでの「フェイズ」の後が<2>になっている以外は一度目と同じ歌詞だ。意味合いとしてもほぼ同じように感じる。

そしておそらく「フェイズ」<1><2>というのは心境の変化の段階のことかもしれない。

要は<1>の後の歌詞と<2>の後の歌詞で、段階的な心境の変化が起こっていることを意味しているのではないか、ということだ。

「畏まったって」~「よろしくね。」

「畏まる」はおおよそ「敬ってつつしむ」のような意味だと思われる。この場合、対象となるものを大きく見て、それに比べて自分が小さいと思うだとか、そういう態度や行動を取るだとか。

その対象が何なのかに関しては、おそらく「恥ずかしがった 夢」だろう。

その「夢」に「ばいばいです」と言っているので、口にするのを恥ずかしがって、つい畏まってしまうような、自分にとっての大きな夢と決別した場面の歌詞だと思う。

「意味ないんだって」は「役に立たなかった」「そうしなければよかった」というような意味だろう。

そして夢との決別の後が「この先ずっとよろしくね」と続くので、場面としてはやはり「僕」と「君」での再出発。

そう考えると、冒頭の歌詞とここの部分は同じことを言っていることになるだろう。

「思い出」は夢と決別しなければならなくなったきっかけであり、そのときの心境が「大正解なんて」~「終わりますか」まで。それを今日で終わりにして夢と決別し二人で再出発する、というのが全体の流れと捉えられる。

再出発を思って立ち上がったのがフェイズ<1>なら、フェイズ<2>は過去と決別して歩き始めたところ、のような感じだろうか。

「君と今」~「崩れ落ちてく」

後の歌詞を踏まえて解釈したほうがおそらくわかりやすいと思う。その歌詞は「わかりあえるまで僕たちは」だ。

つまり「君と今」から「わかりあえるまで僕たちは」の間の歌詞は、「わかりあえていない」状態を表現していると考えられる。

そうだとすると、「交わり」ながらも「目を逸らしあう」というのは物理的な距離は近づいているのに互いにちゃんと向き合えてはいないような状態だと思われる。

おそらくそれによるすれ違いもあるはずで、「段々嫌になって でも好きになる」にはそういう意味もあるかもしれない。

「自分会議」が「様になる」ということは、頭の中での会議を何度も繰り返しているということを意味しているのだろうが、何度も繰り返しているということは根本的な解決案がその「会議」で出ていないということでもある。だから効果的でないこと、場合によっては逆効果になってしまうような結論が出てきてしまうことなどを「崩れ落ちてく」という言葉で表現したのだろう。

「ぱっぱっ 触れる前に」~「わかりあえるまで僕たちは」

「触れる前に 消えてしまう」ものといえば、いわゆる幻影のようなことだろうか。ここも先ほどと同じように考えると、「君」についてのことということになる。

だとすれば、主に「僕」に対する「君」の行動や言動の意図だとか、「君」の心や本心みたいなことかもしれない。

一方で「触れる前に 消えてしまう」ものとして別に考えられるものには、夢もある。この曲の歌詞の中でもそれらしき部分があったので、こちらの意味の可能性もあるだろう。

ただ流れ的に、過去の夢のことというより、もっと広い意味での夢だろうとは思う。要するに、目標を定めてそれに向かって進んで行くが、達成できずに終わってしまうようなこと全般を言っているのだろう、ということだ。

いずれの意味でもその夢や幻を「散々嫌になる」が、それでもやはり根っこある気持ちが消えないことから、「でも好きになる」のは同じ。

「わかんないや」は、ここでの意味としては「僕」から見た「君」のことが、というほうが強いだろうと思う。だから続く歌詞が、「この先もずっと わかりあえるまで僕たちは」となるのだろう。

「今更なんて 言わないでね」

ここも流れで考えると、「僕」と「君」の関係についての言葉なのではないかと思う。つまり「わかりあえていない」状態で今一緒にいるというのが現在の「僕」と「君」だとすると、この「今更」はその関係を諦めて終わりにするようなこととも考えられる。今更もう無理だから、のような。

「僕」の希望は歌詞にあるように「この先もずっと」一緒に何かをするということだろうから、それを終わらせてしまうようなことを「言わないでね」と言っているのではないだろうか。

「僕ら今」~「シェイクシェイク いえい」

歌詞としては一度目のサビと同じだ。しかし先ほどの「今更なんて 言わないでね」からこのサビに入ったことで、特に最後の「この先もずっと 僕の心をシェイクシェイク」の意味が強まる。

一つ目のサビを「僕」と「君」の再出発、二つ目のサビを二人でいながらもすれ違いがあるような様子と捉えると、どの程度なのかはわからないが二人の関係の危機があったのかもしれないとも考えられる。それが「今更なんて 言わないでね」までと考えるなら、最後のサビは、その危機を乗り越えて変わらず二人で、という意味だということになる。

だから最後の「この先もずっと」には、それを願っているというより、むしろ確信めいたニュアンスとして捉えたほうがいいのかもしれない。「この先もずっとそうなって欲しい」というより、「この先もずっとそうなっていくだろう」というニュアンスだ。

タイトルについて

実はこの曲の解釈をするうえで一番の問題がこの『お気に召すまま』というタイトルなのではないかと思う。

言葉をそのまま歌詞の内容も踏まえて捉えるなら、「好きなようにする」ということであり、そうするのが良いという感じと、でもそれでもうまくいかないことはあるというメッセージが重なっているような印象だ。

ただ、『ドラマツルギー』を考察したときに調べたことだが、シェイクスピアの劇にそのまんま『お気に召すまま(As You Like It)』というものがある。

Eve『ドラマツルギー』歌詞解釈・考察|黒幕を見抜いてこの劇場をhttps://najiitishi.com/music/dramaturgy.html

そしてこの喜劇で有名なセリフがあり、

“この世はすべて ひとつの舞台、

男も女も 人はみな役者に過ぎぬ。”

というものなのだが、この見方をヒントにすることでこの曲の歌詞の「空々しいな この人生」のニュアンスがやっと掴める。要は「空々しい」のは「人生」を「演じているようであるから」だということだ。おそらくは「夢」を諦めきれていないときの心境ということだろうか。

ということは、『お気に召すまま』というのは「心のまま」のようなことで、「演じるのをやめた状態」のことを指すのかもしれない。ならこの曲にも、二人が「演じることをやめる」というテーマが含まれている可能性もある。

「夢」を諦めずにいるのが「何者か」になろうとしている状態だと考えるなら、『ドラマツルギー』にも通じるテーマだ。

そこからさらに繋げて考えるなら、『ドラマツルギー』の中での「何者か」になろうとして争いあう場から降りた後の道こそが、この『お気に召すまま』という曲なのかもしれない。

シェイクスピアのほうの『お気に召すまま』という劇の内容も、あらすじを見ただけだが一応書いておこう。

互いに一目惚れした男女がそれぞれ苦境に陥り同じ森に別々で行き着き、二人は変装により片方だけが相手に気づき、もう片方は気づかないまま再会する。そして恋愛に関係する遊びというか練習というかをその状態のまま行うようになるが、いろいろな状況の変化によって終わりが来る。最終的には二人が苦境に陥った理由も解消され、他にもいる登場人物たちを含めて何組もの恋人たちの結婚式が行われる。

片方が気づかないままで互いに一目惚れしている男女が、恋愛の遊びもしくは練習をしている。つまり「演じている」というのが注目すべきポイントということになるだろう。そしてそれをやめた後にハッピーエンドに向かう。

また、劇の登場人物たちそれぞれに再出発のようなニュアンスも感じ取ることができるような内容も、調べただけではあるがありそうに思える。

このあたりのことがこの曲にもあるのだとすれば、それこそが曲のタイトルに『お気に召すまま』という言葉を持ってきた理由なのかもしれない。

ただ一つ気になるのは、この曲の二人はシェイクスピアの『お気に召すまま』の劇ほどにはハッピーエンドになっているわけではないというところか。

「大正解なんてない」や「物語は終わりますか」の問いかけには、劇の終わりと日常の終わらなさの対比のような構造を浮き彫りにする意図も、あるのかもしれない。

まとめ

ある種の「夢」を諦めることになり悲嘆にくれた二人が、その「夢」と決別して共に再出発する物語。

二人の間にはすれ違いなどもあるが、「回る」「踊る」ということを一緒にしていく。この先もずっと。

というのが今回の考察の結論となる。

「わかりあえるまで僕たちは」の歌詞から考えるとわかりあえていない状態がこの先も続く、というふうにも捉えられてしまうのだが、ここはむしろ、わかりあおうとお互いにし続けると考えたほうがいいように思う。

終わりに

具体的な描写がほとんどないため考察がかなり難しかったが、『ドラマツルギー』の考察のときにシェイクスピアの『お気に召すまま』を見つけられたのが大きかった。

と言っても直接的な関連はあまりなさそうで、テーマに絡んでくる感じだったので、歌詞の場面と劇の場面を比較してどうこうというのはできなさそうだが。

Eveの歌詞には以前の曲の歌詞やタイトルが含まれることも多いので、本当は順番にひとつひとつ考えていくほうが良いのだろうとは思うのだが、今のところはMVになっている曲から考察していきたい。

それも全部というのは難しそうだし、順番にというのも制約として少し厳しい。

なのでいったんピックアップしながら進めて、それがかなり進んだらEveの他の曲も、というようにするつもりだ。

次のEveの曲としては、アルバム『おとぎ』に収録されている曲にしようと思っている。