今回はEveの楽曲『ドラマツルギー』の歌詞を考察していく。
『ドラマツルギー』は調べると、2017年10月10日、ニコニコ動画に初音ミク歌唱のバージョンのMVが投稿され、その翌日の11日にYoutubeにEve本人の歌唱のMVが投稿されたらしい。
そして2019年10月にabemaTVドラマ『フォローされたら終わり』の主題歌に起用されたと。
『ナンセンス文学』や『お気に召すまま』と同じく、アルバム『文化』に収録されている。
人気かつ有名な曲だ。間違いなく代表曲の一つだろう。しかしタイトルから難しい。歌詞の内容自体も、わかるようでわからない、でも部分的にはわかる気がするというような印象をずっと抱いていた。
なので結構長いこと詳しく考察してみたいと思っていた曲の一つだ。
歌詞自体は歌詞カードかネット検索かでなんとかして見てほしい。
これから歌詞の解釈をしていくが、具体例をあげることはあっても基本は抽象的に捉えていきたい。
また、歌詞の一部分を抜き出してその意味などを考察しながらひととおり解釈した後に、改めて全体を考察するという形式を取る。
ここで書くのは筆者の「思考」そのものだ。あまりに的外れだと思われるような解釈ははずしておくが、「答え」だけを書くということはしないしできない。断定的に言っていたとしてもどこまでいっても推測でしかないためだ。しかしもちろん、他の解釈を否定するものではない。
そして敬称は略させていただく。
というわけで、考察を始めよう。
「頭でわかっては」~「投げだしたんだ」
冒頭の、頭で理解して嘆いたのが何であるかは後の歌詞にあると思われる。
なので先に次の「転がってく様子を嗤った」。これはいわゆる「転落していく」ような様子と思われる。それを「嗤った」。この字の場合は人を見下してあざけるような使い方らしい。なので人が何か失敗して悪い状況になっていくのを見て笑った、という感じ。
そして、「寂しい」や「愛」がわからない、だから「人間の形」を投げだした、と続く。投げだすという言い方はやろうとしたけど途中でやめたというようなニュアンスだろう。この「人間の形」が意味しているのが何かを直接解釈するのは難しい。しかしヒントは歌詞の中にあると思うので、いったん置いておく。
ただここで冒頭に戻ると、「頭でわかっては嘆いた」のは「寂しい」や「愛」がわからない自分を、ということになるだろうか。頭ではわかっているが心ではそれがわからない。それを自ら嘆いているのだろう。
「抱えきれない 言葉だらけの存在証明を」
「言葉だらけ」というのは前の歌詞を踏まえて考えると、寂しいだとか愛など、いわば「情感」の反対という捉え方ができるだろうか。心でなく頭で理解する、のような感じで「情感」ではなく「言葉」で自分の「存在証明」をしようとしている、というような。
「抱えきれない」が何に掛かっているのかははっきりとはわからないが、自分のそれらをひっくるめた状況、自我のことか、あるいは「言葉」のほうかもしれない。
「言葉」を「抱えきれない」のなら、それを発しているということになる。言わずにはいられない、というような精神状態だろうか。
「この小さな劇場から」~「向かってゆくんだ」
「劇場」は耳で聞く限り「はこ」と読んでいるようだ。だとするとそれこそ「小さな箱」に閉じ込められているかのような息苦しい状況を言っているのだろう。
その後の歌詞もそこから繋がり、それに「気づいたら最後逃げ出したい」。
今度は文字通りの「劇場」から繋がる歌詞で、「僕ら全員演じていた」「エンドロールに向かってゆく」となる。
前の歌詞との関連を考えると、「演じていた」というのはいわば「人間」を、ということになるだろう。そうだとすると「劇場」はそれを演じる場所であり、その状況を窮屈に感じているから「はこ」という言い方なのだろう。
重要なのはそこで「演じていた」のは「僕ら全員」である点。「僕」だけの話ではないということだ。
「さあ皆必死に役を演じて傍観者なんていないのさ」
ここも歌詞の繋がりで考えると、「役」は人間的な振る舞いのことで、それをしているのは「皆」。
「”ワタシ”なんてないの」~「何者にもなれないで」
「ワタシ」のニュアンスは、「ずっと僕は 何者にもなれないで」の歌詞から逆算するように考えると「何者か」である自分、という感じだろうか。演じている「役」という言い方もできるかもしれない。その「僕」が演じている「役」をいわば「人間的な自分」と捉えていいのであれば、「何者か」もそういったもの。その「人間的な自分」というものが、実際には「ない」「どこにだって居ない」と言っていることになる。
「何者にもなれない」ということは演じてはいてもそれになれているわけではなく、かつ「何者か」になりたいという願望があるということになる。なりたいけれどなれていない、という状態だ。
「僕ら今」~「言の愛憎」
「サレンダー」は降伏や降参、放棄する、明け渡すなどの意味があるらしい。
そして「メーデー」は調べるとまず労働者の祭典が出てくるが、一般的に歌詞において多いのは緊急時の無線で言う言葉のほうだろう。「助けに来て」という意味であり、救難信号だ。通常三回繰り返すのだとか。
それを踏まえても難しい歌詞だ。何らかの戦いを表現しているのだろうが、まず「僕ら」が指すものがはっきりしない。
先ほどと同じ使い方なら、僕を含めた「役を演じている人たち」ということになる。だとすると「喰らいあって」とあるのでその人たち同士での争いということだ。とりあえずその方向で考えてみよう。
「延長戦 サレンダーして」の歌詞の「サレンダー」は放棄や降参だろうか。自分からやめる、というようなニュアンス。
「メーデー」は助けを求めているか、もしくは緊急事態に直面していることの表現だろう。それに続く「淡い愛想」の「愛想」は態度というより、好意や信頼感という感じがする。それが「淡い」のだから、本心からの好意もしくは信頼感であるのかわからないような状態。「メーデー」から続いているので、助けてくれる気があるかどうかがよくわからないような感じかもしれない。「僕」が助けを求めている側なのかあるいは逆側なのかははっきりしないが。
そして「垂れ流し」なのは「言の愛憎」。「愛憎」は愛することと憎むこと。「言」は「こと」と聞こえるので「言葉」のことでいいのではないだろうか。
この表現からすると、この争いはただ憎み合っているという間柄で起こっているわけではない。一方で「愛憎」を言葉で「垂れ流し」にしているとなるとなんというか、かなりどろどろした印象を受ける。そもそも長引くことがあるから「延長戦」という単語も出てくるのだろうし、「喰らいあって」いるのに「メーデー」と助けを求めるのなら、かなり複雑というか泥沼な印象だ。一行ごとに状況が変わっていそうな忙しなさもある気がする。
「ドラマチックな展開をどっか期待してんだろう」
この場合の「ドラマチック」が具体的にどういう状況なのかは確定できないが、それこそ「劇」のような展開というニュアンスだろう。うまくいったと思ったら一気に転落したとか、逆に裏切られたと思っていたら実は違っていて助けられたとか。どっちの方向もあり得ると思う。
手前の歌詞が泥沼状態の争いであるなら、その状況を一変させることが起こって欲しいということかもしれない。
ただ、「期待」しているということはまだそれは訪れてはいない。
「君も YES YES」~「その目に映るのは」
「YES」の部分の歌詞に意味があるのかどうかはよくわからない。「君」が何かに対して「肯定」して「息を呑んだ」という意味にも読み取れる。何を肯定したのかは難しいところだが、「ドラマチックな展開を期待している」ことか、あるいはまた別のことか。
というか「君」が「肯定」したわけじゃなく、「僕」が「君」を見て何か「肯定」的な印象を抱いたという感じかもしれない。「君も」とあるので、「僕」もまた何かにおそらくは驚いたか気づいたかで「息を呑んだ」。それを「君も」同じような反応だったことを見て、「そうだよな」という感じの同意とか共感の意味での「YES」かもしれない。
「采配」は指揮や指図、もしくは指揮に使われた道具。
先ほどの歌詞と繋げて考えると、要は誰かが争いを引き起こしていることに「僕」や「君」が気付いた、というような解釈が可能だろうか。
「ヘッドショット」は一般的にはゲームの中で銃などによって頭を撃ち抜くことだろう。クリティカルヒットみたいなことだ。
戦っている表現にも思えるが、攻撃しているのか攻撃されているのかは難しいところ。それも物理的にではないだろう。「その心 撃ち抜いて」ともあるし。
ともあれ「騒ぐ想い」という歌詞によって、状況は落ち着いてはおらずむしろ混乱していることがわかる。
順番からすると、まず「頭」を「撃たれて」いわば大ダメージを受け、それにより「心が騒いだ」ところに今度はその「心」を「撃たれた」という感じになる。もちろん逆に「撃った側」として解釈もできると思うのだが、「撃たれた側」として考えたほうが理解しやすい気がする。
というのも、その後に「黒幕」が出てくる。要はその「黒幕」に撃たれたとも解釈できるわけだ。
「黒幕」はそれこそ裏で「糸を引いて」いる存在のことだろうが、そこに「まだ見ぬ」とついているところから考えると、状況をコントロールしているように見える「黒幕」だが、本当にコントロールしているのかどうかはわからない、といった感じだろうか。
「その目に映るのは」で、答えは出ずに歌詞が途切れる。このあたりのことはひとまず歌詞をひととおり読んでから考えることにしよう。
「触れたら壊れて」~「怪物になったんだ」
「触れたら壊れてしまった」は物語の中では繊細なものに触れようとする不器用な存在みたいなものを表現するときに使われることが多いように思う。力の加減がわからないという感じ。
「間違ってく様子」は自分というより別の身近な誰かだろうか。それを「黙った」ということは、口を出すことなく見過ごしたということか。
「僕ら」は現在「演じている人たち」で、しかし過去は「無垢」だった。
それが「いつのまにやら怪物になった」。「怪物」というのは加減がわからず、他人が間違いを犯すのを見過ごすような存在ということだろう。
なぜそうなったのかと言えば、「人間の形を投げだした」からだろう。だから「いつのまにやら怪物になった」。「人間」じゃなくなったから「怪物」になった、という理屈だ。
「その全てを肯定しないと前に進めないかい」
自分たちが「無垢」だったが今は「怪物」になったことを認めなければ前に進めないか、という問いかけ。問いかけの形であるということは、本心としては認めたくはないことを意味している。肯定しなきゃならないと思いつつも肯定したくはない、というような心情がありそうな言い回し。
『まあ君にはきっと』~「飛ばしてきたんだ」
セリフの形の歌詞が二行。どちらも「君」に「きっと無理」だと言っているが、おそらく最初のセリフは「僕」ではない誰か。二つ目のセリフが「僕」の発言なのだろうと思う。
そう思う理由は、「いつのまにやら外野にいた」「そんなガヤばっかり飛ばしてきたんだ」という歌詞にある。
実際のところはさきほどの「怪物」に関する歌詞は「僕ら」についての話であり「僕」自身も含んでいるはずなので、「君」が「君」自身のことを「怪物」と認めるのは無理だという発言の仕方は、「僕」を棚上げにしている。
そういうふうに自分のことに目を向けずに「ガヤ」を飛ばす人を「外野」と言っていて、いつの間にか「僕」がそうなっていた、という歌詞だろう。要は他人が言った「ガヤ」に「僕」も乗っかって言っているのが二行目のセリフなのだろうという推測だ。
この場合の「ガヤ」はほとんど「野次」のような意味と考えていいと思う。人がたくさんいる中にまぎれて非難するようなイメージ。
「皆必死に自分を守って救いの手を待ってるのさ」
「外野」にいる理由に読める。つまり「外野」になるのは当事者でいるのがきついからであり、「自分を守る」ため。それでいながら「救い」を待っている。要は自分で「前に進む」のではなくただ「待っている」わけだ。
ただし前の歌詞にあったように、本当は「傍観者なんていない」わけだが。「外野」がいるのも本当は「劇場」の中なのだろう。
「考えたくはないよ」~「何者にもなれないで」
「考える」ことは、この場合おそらく自分のことについてだろう。そして「考えず」に「馬鹿になっていたい」と思っていたらいつのまにか「外野」になっており、それは「何者か」になることから離れる行為であった、と。
歌詞としては「ずっと僕は 何者にもなれないで」は二度目だが、「何者」の中身が一度目よりも広がっている。別のニュアンスが付加されたような印象だ。
そしてここまでで、「怪物」と「人間」について整理できそうだ。
おそらく「怪物」というのは外野でガヤを飛ばす集団そのものを表現している言葉なのではないかと思う。「僕」が「怪物」になったというのは、いわばその集団の一員になったということ。そこから考えれば「人間の形」というのは逆に一個人のことであり、他者を攻撃するために集まってくる人たちのその行為に参加しない者だと言うことができる。
一人の人間だから当然「人間の形」をしているが、集団に紛れると個人個人ではなく集団になる。そして集団として動く。それが他者を攻撃している状態を「怪物」と呼んでいる、と理解すればいいのではないかと思う。
もしかしたらこれは雑な表現になるのかもしれないが、自立している「人間」と集団心理の「怪物」のような構図。
最初のほうの歌詞の「人間の形は投げだしたんだ」というのはこの構図で言えば「僕」が自立を諦め「怪物」つまり集団心理に呑み込まれていくような意味に受け取れる。
「だから今 前線上に立って」~「必要ないよ」
「だから今」とあるように歌詞はその前からそのまま続いていると考えていいだろう。つまり「何者か」になるために、戦いの「前線上に立つ」。
「旗」はこの場合は、自分の存在や行動を示すような行為として使われているような印象を受ける。「旗を立てる」と言えばその場所から自分たちが何かを始めるようなニュアンスだし、「旗を掲げる」なら何か事を起こすときに勢いをつけるために行われることというような感じがする。
だから「旗」が「高く舞う」なら高い位置に上げているわけなので、戦いの場なら先導しているようなイメージだろうか。
ただ、「劣勢」ともあるので勢いだけでどうにかなるような戦いではないのだろう。そこで「頼る相棒」。誰なのは不明だが、「言葉すら必要ない」ほどに理解し合っている相手が、その「前線上」にはいる。つまり戦友のような存在であり戦おうとしたから得られた存在なのかもしれない。
「ドラマチックな展開はドットヒートしてくだろう」
最大の問題は「ドットヒート」という単語なのだが、検索しても出てこないし、造語の可能性もある。
ただ文脈的には「加速していく」「過激になっていく」というような意味合いだとなんとなくしっくりくる気がする。
だがここでまったく別のアプローチとして、Youtubeの公式MVで字幕機能を使って英語での字幕を表示し、この部分の歌詞を翻訳してみたところ、「物語はあらゆる種類の劇的な展開で満たされるべき」「そしてここで私は展開を再び劇的にひとひねりするためにそれらに熱心になる」という感じになった。
直訳ではなく少し意味が通りそうな表現に変えたところもあるが。英語が二種類あったので翻訳も二種類だ。
主語が「私」なのか「物語」なのかで意味が少し変わっている気がするが、おおむね「より」「さらに」劇的な展開になるべき、なっていこうとしている、といった感じだ。
翻訳の正確性の問題もあるはあるだろうが、だいたいこのような意味で捉えておいても大筋と矛盾はしないだろう。少なくとも歌詞の流れ的に急に真逆のことを言っていたりはしなさそうだし。
「君も YES YES」~「ぽつりと鳴いた」
最初の一行は前と同じ。「君」が「息を呑む」ようなことがあった。
次からは変わり、「再会を誓いあって」となる。ということは別れることになったということだ。
逆に言うと今まで戦っている状況の中で一緒にいたことになるので、前の歌詞で出てきた「相棒」と「君」は同一の存在である可能性もある。
ただ「君」と別れた「僕」はといえば、「ワンチャンス」をものにするために「一瞬をかける」。ここしかないというタイミングで打って出るということのようだ。その失敗できない緊張感に、「クライマックスみたいな 手に汗を握る」。
ここまでは戦いの中の光景として読めるが、最後の「ぽつりと鳴いた」で印象が変わる。場面転換のような雰囲気。劇で言うなら急な暗転のような感じだ。
そして歌詞自体も、いわゆる独白に入るための表現のように思える。特に「ぽつりと」は、状況的に自分にしかわからないような声の大きさに思えるし、「鳴いた」という言い方は「話す」よりももっと、思わず口からこぼれ出たようなイメージを受ける。
また、「泣いた」という意味も掛かっているかもしれない。
「隠してきた真実」~「理由なんてない」
この歌詞の中でも特に自分の内面を語るようなパートであるように思えるため、「隠してきた」のは自分であり自分のことだろう。「真実」と表記されているがどうやら「ほんとう」と言っているようなので、いわゆる本当の自分はどこにもない、というニュアンスがあるのではないかと思う。
また「隠してきた」というのは「演じる」と通じる。本当の自分がどこにもないことを知られないために自分を演じていた、ということだろう。今までの歌詞で考えると、自分を演じた結果として「怪物」となってしまっていたが本当の自分は「怪物」ではない、と言いたいがその本当の自分が「どこにもない」というような自分がわからなくなっているようなことに思える。
「嗤ってきた奴ら」は自分も含むことになる。他人の転落を嗤う者には「居場所はない」と。個人的には居場所を得る資格がないというような意味より、結果的に居場所がなくなる、という捉え方のように感じる。
「思い出して」はおそらく今までの自分を振り返って、ということだろう。そのうえで「ぽいってして感情はない」というのは、振り返ってはみても反省することや後悔することがないというよりも、そういったことがほとんどできない人間なのだと自分で自分を思っている、という感じか。
しかし「流した涙」とあるように、涙は出る。だがそれでも「理由なんてない」という。ここに関しては理由がないというより、わからないのかもしれない。
「優しさに温度も」~「覗き込んだんだ」
いわゆる人の温かみがわからない、という感覚を「優しさに温度も感じられない」と表現しているのだろう。
そして続いて「差し伸べた手に疑いしかない」。「差し伸べた」と言っているものの「疑い」を抱くのは自分のはずなので、「差し伸べられた」の言い換えと捉えていいのではないかと思う。あるいは自分の心情に疑いが向いている可能性もあるが。普通に考えれば、助けようとしてくれた人に対して何か裏があるのではないかと疑ってしまうことだろう。
「穴が空いて」いるのは要するに心に、ということだろう。その結果「愛は垂れて」しまった。だから心が空虚になる。
つまりここの歌詞は人の好意や厚意をちゃんと受け取ることができず、疑いさえ抱いてしまう自分は「愛情」なるものを失ってしまっているのだと感じている、と解釈できるだろう。
と、そのような「僕」を覗き込む存在が出てくる。それが何者なのかは歌詞全体に関わるはずなので、後回しにする。
「諦めかけた人の前に」~「呼吸を整えて さあ さあ」
「諦めかけた人の前に」「いつも嘲笑うようにお出まし」するという言い方である以上、「アンタ」は「僕」にだけ現れる存在というわけではないのだろう。
一方で、「君にはどんな風に見えてるんだい」と問いかけているのだから、「君」には「アンタ」が見えていないか、「僕」と「君」では見え方が違うということになる。
そしてこの「アンタ」は「僕」を覗き込んだのと同じ存在だと思われる。
そしてそんな「アンタ」が現れたところで、何かをする準備のように「呼吸を整えて」とあり、歌詞は最後のサビへ向かう。
「ずっと僕は何者にもなれないで」
ここから先の歌詞は一度目のサビの歌詞と同じだ。
“その目に映るのは”の歌詞が一行空けられたうえでクォーテーションマークで強調されている以外はまったく変わらない。
サビの歌詞の内容は先ほどの解釈を要約すると、「僕ら」が争いの中で、戦いをやめようとしたり、助けを求めても助けてくれるかわからなかったり、「愛」や「憎しみ」を言葉で発したりと、とにかく人間臭さのありそうな混乱した状況をある種一変させる「ドラマチックな展開」を期待していたところ、その場のすべてを持っていくような「黒幕」のような存在が現れたことに「君」が息を呑む、というような感じ。
そして最後にいわゆる「黒幕」を目に映す、その正体は、というところで歌詞が終わることになる。
ひととおり歌詞を読み終えて
そもそも「黒幕」は何をしたのか。解釈次第だが、争いの「采配」をして、もしかしたら「ヘッドショット」や「心を撃ち抜いて」いたりもするかもしれないが、おそらくこれは物理的な攻撃みたいなことではなく心理的な衝撃を与えたとか驚かせるようなことをして相手側が呆然としたとか、そういった類のことだと思う。
というか「采配」をされていたことへの衝撃を「君」などが受けた、ということかもしれない。
しかし「まだ見ぬ糸を引いて」とあるように、「黒幕」が何をしようとしているのか、どこまでしているのか、そして何者なのかは一切語られていない。
歌詞全体を見ると「黒幕」と「アンタ」は同一の存在のような気もするし、分けて考えたほうがいいような気もするしという微妙なところ。
「アンタ」「僕」「僕ら」「君」「黒幕」
「皆必死に役を演じて傍観者なんていない」と言っている以上、「僕ら」も「君」も「劇場」で演じる存在であることになる。「僕ら全員」や「皆」と言っていることから、おそらく「僕」と「君」以外にも複数人がいるような状況を思い浮かべることができる。
演じている内容、つまり劇場で何をしているかと言えば、おそらくサビの部分の歌詞ということになるだろう。
そう考えるとそこでの何らかの争いも演じられているだけのことのようにも思えるが、そういうわけではないはず。
常に「ずっと僕は 何者にもなれないで」という歌詞からサビに移行することから、おそらく「何者か」になるための争いという意味合いもあるのではないかと思う。「だから今前線上に立って」という歌詞も、そういう意味なのではないか。
問題はそういう「何者か」になろうと戦っている「僕ら」の「采配」を決めている「黒幕」の存在だが、この「采配」によっていくら争ったところで「何者」にもなれない状況になっているのなら、「何者か」になれない理由が「黒幕」にある、というような捉え方になる。
ということは重要なのはサビ以外の歌詞だ。「何者か」になれていないというのがどういうことで、それがどんな状態なのかを説明している。
まず、寂しいとか愛とかがわからない者。言葉を並べ立てることで言葉を発している自分の存在を逆に証明するようなことをし続けないといられないような者。自分を誰かに演出し続けなければならないと思ってしている者。言葉や演じることは自分を隠して守る手段だ。
しかしその結果、外野として人にガヤを飛ばして人を攻撃し、あるいは人の間違いを放置し、転落を嗤うような怪物になる。これが「何者か」になれていない状態だ。他者を攻撃する集団の、その一人でしかない状態。
そして、諦めかけた人の前に嘲笑うようにして「アンタ」が現れる。そういった印象を抱くようなものであるなら良くはないものだろう。このとき「僕」ではなく「人」と言っているため、自分にだけ現れるものではない。
ここで以前に考察した「ナンセンス文学」に出てきた「アンタ」が頭に思い浮かぶ。
Eve『ナンセンス文学』歌詞解釈・考察|魔法だけでは生まれ変われないhttps://najiitishi.com/music/nonsenseliterature.html
そちらでの「アンタ」のことは、「他人に対して見せる取り繕った自分」のような感じで解釈した。こちらでも同じような解釈が適用できるように思う。
こちらの歌詞での「アンタ」はおそらく、「自分を演出し他人に存在を証明し続けなければならないと駆り立てるもの」であり、自分自身の中にある一種の衝動のようなものなのではないだろうか。
そしてそれが「僕」に限った衝動でない以上、皆がその衝動によって「何者か」になるためにこの歌詞で言う「劇場」で争うことになる。言葉での自分の証明は言葉を発し続けることであり、それを皆がしようとすれば結果的に言葉による戦いのようになる。
そういった争いの構造になっているのだとしたら、「黒幕」と「アンタ」は同一のものと捉えることもできるだろう。
つまり争いを引き起こしているのは自分たちの中にいる「アンタ」であり、それが「黒幕」。従って「その目に映るのは」自分自身。ただし目で見て映った自分ではなく、さらに奥にある衝動のようなものであるというのが実際のところなのではないだろうか。
歌詞の結末について
サビ部分の歌詞に時間経過があるのかどうかが気になるところだ。つまり一度目のサビと最後のサビはほとんど同じ歌詞だが、同じことを繰り返して言っているのだと考えていいのかどうか。
重要なのは二回目のサビの最後で「ぽつりと鳴いた」のところから自分を省みるような歌詞に入るが、そこで「アンタ」について言及されている。
それを踏まえての最後のサビという捉え方をしていいのであれば、「喰らいあって」いる「僕ら」を、「僕」と「アンタ」のように捉え直すこともできるかもしれない。
要は自分の中の衝動と戦っているような場面として考えることもできる。
二回目のサビについてはどちらのニュアンスで捉えるべきかは難しいところだ。もはや好みでいいような気もする。演じている者同士の喰らいあいか、「僕」と「アンタ」の喰らいあいか。
というか時間経過がないのなら、三回のサビのどれも同じ場面であることになるが、その場合でもどちらとも解釈は可能なように思える。
つまり現在はどちらかの争いの真っ最中だが、その合間に回想が何度か挟まるような物語の構成として捉えられるわけだ。
争いが演じている者同士であるなら、おそらく「僕」を含めて誰も何者にもなれないで終わる結末になる。
しかし「僕」がはっきりと「黒幕」の正体に気づいているのなら、そこから抜け出すための戦いの場面がこの曲のサビの歌詞だということになる。
その場合、勝つというよりも自分の衝動と戦い続けて、それによって演じる者同士の争いはしなくなるという結末になるだろう。
それこそ、“その目に映るのは”何だったのか次第、というような感じだ。
タイトルについて
ここまで来てようやくタイトルの話をするが、「ドラマツルギー」の単語を調べるととりあえず二種類出てきた。
まずは、戯曲の創作や構成についての技法。あるいは演劇論。
もう一つは社会学の用語。複数の人間が共存する場において、一人一人が周囲の人から期待される役割を演じる立ち振る舞いによる相互作用のこと。
要するに場や立場に相応しいと思われる振る舞いを演じ、それを受け取る側もまた受け取る側を演じるようなことでコミュニケーションをするというような感じ。といっても演劇の場の話ではなく日常的にありふれていることであり、例えば店員と客のような関係性も互いにその役割を演じることで成り立っているわけだし、あるいは自分の印象を操作するために言い方を変えるなどもあるだろう。
良い人に思われたくて丁寧な言葉遣いをするとか、強い人に思われるためにわざと語気を強めるとか。そしてそのような態度の人に対して、受け手側もだったらこちらはこういう態度でいこうと思って印象を操作しようとする、という感じの相互作用だ。
この曲の歌詞を考えるとどちらの意味も入っているかもしれないが、どちらかというと社会学用語のほうがしっくりくる気がする。
ところでこの「ドラマツルギー」の意味を調べているところでそれを表すようなセリフのある喜劇を見つけた。シェークスピアの『お気に召すまま』だ。このタイトルを聞けばEveの同名の曲を思い出す人も多いだろう。
肝心のセリフだが、
“この世はすべて ひとつの舞台、
男も女も 人はみな役者に過ぎぬ。”
というもの。
この発見はそれこそEveの曲のほうの『お気に召すまま』の考察をする際にも生かせるかもしれない。
終わりに
だいたい上でまとめているので、考察の感想に入ろう。
「僕」の個人的な心のうちにある空虚から来る他人に対する認識や振る舞いが争いを生むという、いわば悪いのは結局自分という話ではなく、むしろそういう似た想いの人間がたくさんいるから争いが生まれるという内容の歌詞だったのではないかと思う。
そしてその争いから抜け出すには自分の中にいる「黒幕」に気づく必要がある、と。
考察の上では常に「争い」だとか「戦い」だとかとなんとなくぼかしていたのだが、自分の中の「黒幕」との戦いはともかく、言葉で自分の存在証明をするために争う、というところに関してはネット上のことを何度か思い浮かべていた。
これに関してはネット上で他人を攻撃している人を見るという機会が現代では多いのではという、筆者自身の経験からの連想に過ぎないのだが、同時代を生きているEveというアーティストである以上は、もしかしたらそのあたりから発想した部分も、なくはないかもしれない。
考察自体はもちろん難しかったのだが、何より歌詞の分量が多い。しかしEveの人気曲ということもあるし、個人的にもその歌詞の意味はずっと気になっていた。
考察はもちろん単純に耳で聞きながらでもある程度できるとは思うのだが、調べたり文章で書いたりしてみるとただ聞いているよりもわかることも多い。逆によりわからなくなることもあるが。実際この解釈だって怪しい部分はあるだろうし。
とはいえ個人的にはちゃんと意味を理解しようと思ったなら、こうして読みながら調べつつ書いてみるのが最も理解に近づく気がしているので、今回気になっていた曲の一つである『ドラマツルギー』を取り上げた。
次にEve曲を取り上げるとしたら、やはり今回キーワードで出てきた『お気に召すまま』あたりが良いだろうかと考えている。